都立高教科に「芸能・文化」導入へ。能や俳句などを取り入れるというが誰が教えるの。




2005ソスN4ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2242005

 春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり

                           西東三鬼

和十一年(1936年)の句。現代であれば、差別語云々で物議をかもすに違いない。ただし前書きに「びつことなりぬ」とあるから、自分のことも含めて言っているわけで、厳密には差別語が使用されていることにはならないだろう。現今のマスコミではあれも駄目これも駄目と非常に神経質だが、前後の脈絡などは無視して、ただ単語のみに拘泥するのはいかがなものか。意識が甘くとろけるような「春ゆふべ」、見渡せば「あまたのびつこ」がそこらじゅうを次々に「跳ね」て行き過ぎてゆく。そしてここには彼らだけが存在し、他の人は誰もいないのである。しかも「跳ね」ている人たちは嬉々としているようでもあって、ずいぶんと奇妙な幻想空間と言おうか、一種狂的なイメージの世界を描き出している。この情景に、理屈をつけて解釈できないわけではない。完璧な肉体の所有者はどこにもいないのだから、人はみな「びつこ」のようなものなのだなどと……。だが、私はそのように理に落して観賞するよりも、むしろイメージをそのまま丸呑みにしておきたい。丸呑みにすることで伝わってくるのは「春ゆふべ」の咽せるがごとき濃密な空間性であり、そのなかにどっぷりと浸されていることの自虐的な心地よさだろう。急に訪れた身体的不自由を嘆くのではなく、むしろ毒喰わば皿までと開き直れば、狂気の世界に身を沈めたくなる気持ちは奇妙でも不思議でもあるまい。詩人の橋本真理は三鬼句や生涯について「転落を"上がり"とする奇妙な双六を見るようだ」と書いているが、掲句にもよく当てはまっている。『旗』(1940)所収。(清水哲男)


April 2142005

 よく見れば薺花さく垣ねかな

                           松尾芭蕉

語は「薺(なずな)の花」。春の七草の一つで、実の形が三味線のバチに似ていることから、俗に「ぺんぺん草」あるいは「三味線草」と言うが、こちらの名前のほうがポピュラーだろう。日頃見慣れている「垣ね」に何気なく目をやったら、いつもの趣とはちょっと違うことに気がついた。何やら小さな白いものが混じっている。そこで「よく見た」ところ、薺の花だったと言うのだ。見たままそのまんまを描いているだけなので、思わず「それはわかりましたが、それがどうかしたのですか」と聞きたくなる読者もいそうである。少なくとも、かつての私はそうだった。が、よくよく繰り返し考えるうちに、この句は薺の花を発見する以前の垣根の変化への気づきを書いたのだと思えてきたのだった。つまり「よく見れば」の前の「よく見ない」状態のときに、ふっといつもとは違う風情を感じたそのことを詠んだのだと……。句に書かれていることは、その気づきが外れていなかったことの証明書みたいなものに過ぎなく、作者はむしろそれ以前の段階での感覚的な世界をこそ指さしたかったのではあるまいか。すなわち、季節の移ろいとともに微細に変化する自然に、いちはやく気づいたことへの喜びと、もう一つはむろん待ちかねた春到来の喜びとが重ねあわされているのだ。わざわざ「よく見れば」を初句に置いたのは、まだ「よく見ない」ときに感じた嬉しい心持ちの強さをあらわしているのだと思う。(清水哲男)


April 2042005

 小酒屋の皿に春行く卵かな

                           常世田長翠

語は「春行く(「行く春」「逝春」などとも)」。別の季語「暮の春」と同じ時期のことを言うが、「春行く」というと春を惜しむ詠嘆が加わる。江戸期の句。昼下がり。旅の途中で、街道沿いの「小酒屋」の縁台にでも腰を下ろして小休止している図だろう。親爺に一本つけてもらって、茹で卵を肴にちびちびとやっている。束の間の旅の楽しみ、道行く人を眺めたり、黄を散らしている周辺の山吹をあらためて眺めやったり……。そして手元の「皿」には、真っ白な卵の影がやわらかくさしている。そろそろ今年の春もおしまいだな。そんな様子と気分を、軽やかにも自然な調子で「皿に春行く」と言い止めた。読者に、何の技巧的な企みも感じさせない技巧。実に見事なものではないか。この句と作者については、俳誌「梟」(2005年4月号)ではじめて知った。作者のプロフィールを、矢島渚男の紹介文からそのまま引いておく。「常世田長翠(とこよだちょうすい・1730〜1813)は下総の国匝瑳(そうさ)郡の出身。加舎白雄第一の弟子となり、その春秋庵を継いだが三年ほどで人に譲って流浪し、晩年は出羽の国に送った。この句は酒田市光丘図書館所蔵『長翠自筆句帳』に収められている」。となれば、掲句は流浪の途次での即吟か。急ぐ旅でもないだけに、句にたしかな余裕があり腰が坐っている。(清水哲男)




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