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2005ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1542005

 美しき人は化粧はず春深し

                           星野立子

語は「春深し」。桜も散って、春の艶も極まったころ。句は、真の美人は化粧しないものだなどと、小癪なことを言っているのではない。私は、この「美しき人」に年輪を感じる。どこにもそんなことは書いてないけれど、季語「春深し」との取り合わせから、そう受け取れるのである。「化粧はず」は「けわわず」だ。もはや若いときのように妍を競う欲からも離れ、容貌への生臭いうぬぼれや憧れもない。かといって枯れてしまったのではなく、また俗に言う可愛いおばあちゃんでもなく、おのれ自身の春が極まったとでも言おうか、自然体としての身体がそのままで美しくある「人」に、作者は好感している。いや、羨望の念すら抱いている。この人には、女性「性」のまったき円熟が感じられ、静やかな艶がおのずと滲み出ているのだ。すなわち、それが「春深し」の季節の極まりに深く照応しているのであって、この季語は動かし難い。そしてまた、「深し」すなわち極まりとは早晩過ぎ行くことの兆しをはらんでいるから、句はその兆しをも匂わせていて、ますます艶やかである。書かれたもので読んだのか、直接聞いたのだったかは忘れたが、埴谷雄高が「女は七十代くらいがいちばん良い」という意味のことを述べたことがある。逆説でも、ましてや珍説でもないだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1442005

 玉浮子を引き込むものもこの世なり

                           つぶやく堂やんま

季句。作者は釣りをよくする人のようだが、こういう句は頭の中で作れそうでいて、そう簡単にはいかないだろう。やはり、実際に何度となく釣った経験のなかから、生まれるべくして生まれた思いなのだ。というのも、傍目で釣りを見ている人には、ぐぐっと浮子(うき)が引き込まれたときに、「やった」という思いくらいしか湧いてこないからだ。釣り人にもむろん「やった」の思いはあるけれど、しかし傍目の人とは違って、釣る人には「やった」の前のプロセスがある。いっかな引き込まれない浮子を辛抱強く見つめているのもその一つであり、むしろかかった瞬間よりも、その間のことを釣りと言ってもよいくらいだ。このときに浮子は、水面下の世界とのいわば対話の道具となる。釣り人は全神経を集中して浮子をみつめ、水の中で何が起きるのか、あるいは起こらないのかを知ろうとする。そうしているうちにだんだんと、傍目の人には別世界でしかない水中が、親和的な「この世」のように溶け込んでくる感じになる。そして突然、ぐぐっと浮子が引き込まれたとき、引き込んだ魚はまさに「この世」の手応えを伝えるのであり、それは「この世」そのものが引いたと同義に近くなっている。すなわち、「この世」が「この世」を引き込むのだ。カラフルで可愛らしい「玉浮子」だけに、クライマックスの怖いほどの思いが強く印象づけられる。『つぶやっ句・ぼんやりと』(1998・私家版)所収。(清水哲男)


April 1342005

 後れ毛や春をそわそわパラフィン紙

                           室田洋子

爛漫などという朗々たる春を捉えたのではなく、極めて日常的な春の喜びを繊細な感覚で詠んだ句だ。うなじの「後れ毛」と包装用の「パラフィン紙」とには何の関係もないのだけれど、「そわそわ」という感覚からすると、両者は手品のように結びつく。いずれもがデリケートな質感を備えており、そわそわとした一種不安定な気分と良くマッチしている。作者はうなじに春を感じながら、たとえば洋菓子のパラフィン紙をそっとはがしているのだろうか。主人公が少女ならば「るんるん」気分になるところだが、作者にはそれらの持つデリカシーの味をも楽しむ気持ちがあるので、やはり「そわそわ」気分と言うしかないのである。パラフィン紙は、別名をグラシン紙と言う。昔の文庫本のカバーがみなこれだったし、いまでも箱入りの本の内カバーとしてよく使われている。カステラの敷き紙なんかもそうだったが、今でも健在かな。半透明で、薄くて破れやすい。私の子供の頃には、大人も含めて俗に「ブーブー紙」と呼んでいた。なぜ「ブーブー」なのかと言えば、この薄紙を口に当てて強く息を吹きかけると「ブーブー」と鳴るからである。他愛無い遊びだったが、鳴らしたときに紙が唇に微妙にふるえて触れるこそばゆさを、いまだに覚えている。『海程樹道場第四集』(2005・群馬樹の会)所載。(清水哲男)




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