今季も巨人に「チーム」を感じない。何だかだと言われてもV9時代は「チーム」だった。




2005ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0842005

 三味線や借あふ花の幕隣

                           柳 士

京の桜は満開。この週末は天気も良さそうだし、絶好の見頃になった。また今日は金曜日ということもあり、夜桜見物に繰り出す人も多いはずだ。明日の朝刊には、たぶん上野の山の人出の様子が写真付きで紹介されるだろう。掲句は元禄期の花見風景。「幕」とあるのは、いわゆる幔幕(まんまく)ではなく小袖を幕のように引き回し、その幕の内で花を楽しんだことによる。庶民というか長屋の連中には、とうてい真似のできない豪勢な遊びだ。「花に来て都は幕の盛かな」(宝井基角)。飲むほどに酔うほどに唄のひとつもうたいたくなってきて、見ず知らずの「幕隣」の人から「三味線」を借りて賑やかに過ごす。これも、花見ならではの楽しくも風情ある情景だ。想像するだけでも、心が浮いてくる。詠まれた場所はどこだろうか。残念ながら、句からはわからない。ただ一点、ここが上野の山でないことだけは明白だ。というのも、あそこは寛永寺のれっきとした寺内なので、花の名所ではあったけれど、鳴りもの類などは一切禁止されていたからだ。「大勢の人が出る割に静粛でありました。ですから上野の花見は上品な人が多く、つまり清遊という側に属していました」(岡本綺堂『風俗江戸物語』)。現今の上野からはかけ離れた印象だが、考えてみれば寺内での歌舞音曲などはとんでもないわけで、理屈としては理解できる。しかし、清遊的花見の楽しさとはどんなものだったのだろうか。私などには落語の「長屋の花見」には耐えられても、江戸期の上野の花見に耐える自信はない。綺堂によれば、騒ぎたい人はみな飛鳥山(現・東京都北区)までてくてくと出かけていったそうである。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 0742005

 ンの字もソの字も同じ入学す

                           中野寿郎

語は「入学」で春。ははは。「ン」と「ソ」は確かに似ているし、書き順を同じにすると、どっちがどっちなのか区別がつかない。まごまごしているうちに、晴れて小学校入学ということになってしまった。そんな幼いころを、自嘲というほどではないけれど、微苦笑しながら振り返っている。入学の句というと、圧倒的に我が子のそれを詠んだものが多いなかで、掲句は自分の入学を詠んでいて珍しい。一見我が子の句としても通用しそうだが、戦後の小学国語では平仮名表記から教えるから、これは片仮名を先に教えた敗戦以前に入学した人の句と解釈すべきなのだ。他ならぬ私の入学も、敗戦の一年前だった。「ン」と「ソ」の区別に悩まされたクチである。だから、作者の気持ちはよくわかる。「エ」と「ヱ」の書き分けにも戸惑ったし、「イ」と「ヰ」の使い分け方なんてさっぱり理解できなかった。おまけに「清水」という苗字の仮名表記が、なぜ「シミズ」ではなくて「シミヅ」なのであるか。それがまた戦後になると、ころりと逆転して「シミズ」と書けと言われては、何がなんだか……と、かなり目の前が暗くなった。いまひとつ国語になじめなかったのは、案外こんなところに原因があったのかもしれないと思う。全国的に、昨日今日あたりが入学式のピークだろう。いまの子供たちは、どんなことにまごつきながら入学するのだろうか。江國滋『微苦笑俳句コレクション』(1994)所載。(清水哲男)


April 0642005

 寝たきりの目を閉じて泣く桜挿せば

                           望月たけし

誌「俳句人」(2005年4月号)のコラムで知った句。「寝たきり」になった父親(と、工藤博司の紹介文にある)に、もう例年のような花見はかなわない。そこでせめてもと思い、作者は花をつけた枝を折りとってきて、花瓶に挿して見せた。父親はしばし凝視していたが、急に「目を閉じ」たかと思うと、声を押し殺して「泣き」はじめたというのである。頬に伝う涙を認めてわかったのだが、しかし作者はそれを正視しつづけることはできなかったろう。おそらくは、はじめて見た父親の涙だ。この涙には、老いた我が身への口惜しさと息子の優しい思いやりへの感謝の念とが入り混ざっている。だからこのときの桜は、単なる花ではありえない。単なる花を越えた、いわば「世間」というものである。私たちの通常の花見にしたところで、たしかに花を見に行くのではあるけれど、花を媒介にして実は世間との触れ合いを楽しむためだと言ってよい。「寝たきり」の人は世間から不本意にも置き去りにされているわけだから、とりわけてそういうことには敏感になるはずだ。そんな孤独な心の枕辺に、華やかに挿された世間としての桜花なのである。誰が泣かずにいられようか……。老いの実相を鮮やかに提出した名句だと思う。『新俳句人連盟創立四五周年記念アンソロジー』(1991)所収。(清水哲男)




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