朝の埼京線に女性専用車両。その昔,急いでいて父と間違って乗ったことがあったっけ。




2005ソスN4ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0542005

 勿忘草わかものゝ墓標ばかりなり

                           石田波郷

語は「勿忘草(わすれなぐさ)」で春。英語では"Forget-me-not"、ドイツ語では"Vergissmeinnicht"という名だから、原産地であるヨーロッパのいずれかの言語からの翻訳だろう。命名の由来をドイツの伝説から引いておく。「昔、ルドルフとベルタという恋人同士が暖かい春の夕べ、ドナウ川のほとりを逍遙(しようよう)していた。乙女のベルタが河岸に咲く青い小さな花が欲しいというので、ルドルフは岸を降りていった。そして、その花を手折った瞬間、足を滑らせ、急流に巻き込まれてしまった。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸辺に投げ、「私を忘れないでください」と叫び、流れに飲まれてしまう。(C)小学館」。なんとも純情な物語だが、俳句ではこうした原意を受けて詠まれるときと、花の名の由来とは無関係に詠まれる場合とがある。とくに近年になればなるほど、由来を踏まえた句が少なくなってきたのは、この種の純情があまりに時代遅れで古風と写るからにちがいない。そんななかで、掲句はきちんと由来を詠み込んでいる。「わかものゝ墓標ばかり」というのは、かつての戦争で死んでいった若者たちの墓標の多さを言っている。彼らは、まさに恋人(愛する人々)のために闘って倒れたのであり、死の間際には「私を忘れないでください」と心のうちで叫んだであろう。そしてまた、彼らは作者と同世代であった。偶然に近い状況で生き残った作者の、彼らに対してせめてもと手向けた鎮魂の句として忘れ難い。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0442005

 金貸してすこし日の経つ桃の花

                           長谷川双魚

語は「桃の花」で春。借金をする句は散見するが、金を貸した側から詠まれた句は珍しい。いずれにしても、金の貸し借りは気持ちの良いものではない。とくに相手が親しい間柄であればあるほど、双方にしこりが残る。頼まれて、まとまった金を貸したのだろう。とりあえず当面の暮らしに支障はないが、いずれは返してもらわないと困るほどの金額だ。相手はすぐにも返せるようなことを言っていたけれど、「すこし日の経(た)つ」今日になっても、何の音沙汰もない。どうしたのだろうか、病気にでもなったのだろうか。それとも、すぐに返せるというのは苦し紛れの口から出まかせだったのか。いや、彼に限っては嘘をつくような人間ではない。そんなことを思ってはいけない。こちらへ出向いて来られないような、何かのっぴきならない事情ができたのだろう。まあ、もう少し待っていれば、ふらりと返しにくるさ。もう、考えないようにしよう。等々、貸した側も日が経つにつれ、あれこれと気苦労がたえなくなってくる。貸さなければ生まれなかった心労だから、自分で自分に腹立たしい思いもわいてくる。気がつけば「桃の花」の真っ盛り。こういうことがなかったら、いつもの春のようにとろりとした良い気分になれただろうに、この春はいまひとつ溶け込めない。浮世離れしたようなのどかな花であるがゆえに、いっそう貸した側の不快感がリアリティを伴って伝わってくる。『花の歳時記・春』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


April 0342005

 ごはん粒よく噛んでゐて桜咲く

                           桂 信子

く噛んでたべなさい。「ごはん粒」は三十回くらい噛むと、甘みが出てきておいしいし、身体のためにも良いのです。子供の頃に、何度も先生からそう言われた。で、三十回ほど噛んでみると、口中のごはん粒はとろとろの液状になり、なるほど甘みが出てくる。たしかに、おいしい。とは思ったけれど、ついによく噛むことは身につかなかった。三十回も噛むというのは意識的な行為だから、食事中は噛むことだけに集中しなければならない。うっかり他のことに思いが行ったりすると、何度噛んだかわからないうちに呑み込んでしまうことになる。すなわち、よく噛もうとする強い意識は、極端に言えば食事全体の楽しさを奪ってしまいかねない。そんなことを気にせずに食べることは、また別の楽しさを伴ったうまさをもたらすのだからだ。掲句は、作者七十歳ころの作品。一般的には、もう子供の頃のような歯よりはだいぶ衰えている年齢である。したがって、逆に噛むことには意識的になってきているのであり、うまさよりも健康のことを考えて、よく噛むことを心がけておられたのだろう。といっても、食事のたびに意識的であるのではなく、時々それこそ昔の先生の教えを思い出したりしてよく噛んでみている。そして、そのようにしていると一種の充実感が芽生えてくる。その充実感を、ごはん粒とは何の関係もない「桜」の開花に結びつけたとき、いっそう晴れやかな気分が立ち上がってきたというわけだ。この「桜」はいま現在の花でもあり、よく噛みなさいと言われた時分の花でもあるだろう。そう読むと、この句には咲き初めた桜のようなうっすらとした哀感が滲んでいるような気もしてくる。『草樹』(1986)所収。(清水哲男)




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