福岡・佐賀地方のみなさん、相当な揺れだったようですね。お見舞い申し上げます。




2005ソスN3ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2032005

 かたまり黙す農民の馬鹿田螺の馬鹿

                           安藤しげる

語は「田螺(たにし)」で春。田圃の隅っこのほうで、いくつもの田螺がのろのろと這っている。子供時代,そんな情景は何度も目にしたが,ノロ臭いなと思うくらいで格別興味を持ったことはない。食べられることも知らなかった。そんな田螺同様に,「農民」もまた「かたまり黙」していると言うのだ。この句からだけではわからないが、このとき(昭和三十年代前半)二十代の作者は鉄工として働いていた。「火蛾・鉄工生きる荒さを一つの灯に」。職場での組合活動にも熱心だったようだ。したがって「かたまり黙す農民」とは一見類型的な農民像のようだけれど、そうではないのである。双方同じ労働者ながら、組織労働者としての作者からすると、現実の諸矛盾にいっかな声をあげようとしない農民のありようには、とても歯痒いものがあったのだろう。その意識のなかでの「馬鹿」である。すなわち、労働者としての親愛の情と歯痒い思いとがないまぜになった「馬鹿」。まるで「田螺」みたいじゃないかと言いつつも,決して軽蔑したりコケにするための「馬鹿」ではないのだ。どこか呑気な田螺の姿を持ち込んだことで,作者の意図した「馬鹿」の中味とニュアンスが誤解なく伝わってくる。戦後の一時期の気分を代表した佳句と言ってよいだろう。戦後も六十年.労働者の姿も大きく変貌した。しかるがゆえにか、労働の現場から発する俳句も少なくなった。多くの人が,まるで働いていないかのような句ばかりを好んで詠んでいる。『胸に東風』(2005)所収。(清水哲男)


March 1932005

 春愁やとろとろ茹でる石つころ

                           八木忠栄

語は「春愁」。明るく浮き立つ気分になる春だが(だからこそ)、ふっと謂れなき愁意を覚えることがある。はっきりとした憂鬱ではなく,あてどない物思いという感じだ。何でしょうかね,この哀感とは。掲句は、こうした質問に対する一つの解答のようにも読めるが,しかしそうではあるまい。やはり作者も「何でしょうかね」と首を傾げているのではなかろうか。つまり、「春愁」とは「石つころ」を茹でるようなものだと言っているのではないだろう。一見そのようにも思えるのは「とろとろ」という修辞のせいであって、しかしこの場合に「春愁」と「石つころ」とは何の関係もないのである。「とろとろ」をよく読むと,石っころを茹でる状態を言っていると同時に,実は「春愁」の状態にも掛けられている。本来無関係な両者が,この「とろとろ」で結びつけられているのだ。ここらへんが俳句表現の妙味だろうが、ここに着目することによって、作者の「何でしょうかね」がそれこそ「とろとろ」と浮き上がってくる仕掛けだ。作者はあるとき,不意に哀愁にとらわれた。が、それは決して暗いばかりのそれではない。どこかに、むしろほのかな甘美感も漂っている。その「とろとろ」した思いのなかで,「とろとろ」と石っころを茹でている。でも、異物を茹でているという意識は全くない。当然のように,ごく自然なこととして茹でている。何故,このようなことが自分に起きているのか。そんな疑問すら抱かせない「春愁」とは、いったい「何でしょうかね」。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


March 1832005

 小腹とは常に空くものももちどり

                           中原道夫

語は「ももちどり(百千鳥)」で春。春の朝,さまざまな鳥が群れてさえずっている姿を指す。この様子の鳴き声だけに重点を置いた季語が「囀(さえずり)」で、当歳時記では「百千鳥」を「囀」の項に分類しておく。「小腹(こばら)」は、中国語では妊婦の腹など具体的な形状を指すようだが、日本語では抽象的に使う。ちょっと空腹を覚えることを「小腹が空く」、少々むかつくことを「小腹が立つ」など。ただ、現在ではどうだろうか。「小腹が空く」は聞くが,「小腹が立つ」とはすっかり耳にしなくなった。したがってか、作者は「小腹とは常に空くもの」と断定している。しかしこれは一種の決めつけ、ドグマである。なぜなら、「常に」そうなのかという素朴な疑問に耳をかそうとしない物言いだからだ。だから作者の腕の見せどころは、このドグマを如何に普遍化するか,誰をもなるほどと納得させるるかにかかってくる。そこで、下五にもってきたのが「ももちどり」。上手いっと、私は唸りましたね。この下五で「小腹」は小鳥の腹の形状へと可視的に転化され,しかも小鳥が早起きしてさえずるのは空腹のためだから、生態的にもぴしゃりと合っている。先のドグマは、見事に「ももちどり」の愛らしい姿に吸引されてしまったというわけだ。普通の写生句は具体を言葉にするのだが、掲句は逆に言葉から出て具体を呼び込んでいる。ただし、この作り方は下手をすると、ついに具体に及ばない危険も伴うので,あまり人に薦める気にはなれないけれど。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます