最近の子供たちは影絵遊びをするのかなあ。私の頃は飽きもせずによく遊んだものだが。




20050318句(前日までの二句を含む)

March 1832005

 小腹とは常に空くものももちどり

                           中原道夫

語は「ももちどり(百千鳥)」で春。春の朝,さまざまな鳥が群れてさえずっている姿を指す。この様子の鳴き声だけに重点を置いた季語が「囀(さえずり)」で、当歳時記では「百千鳥」を「囀」の項に分類しておく。「小腹(こばら)」は、中国語では妊婦の腹など具体的な形状を指すようだが、日本語では抽象的に使う。ちょっと空腹を覚えることを「小腹が空く」、少々むかつくことを「小腹が立つ」など。ただ、現在ではどうだろうか。「小腹が空く」は聞くが,「小腹が立つ」とはすっかり耳にしなくなった。したがってか、作者は「小腹とは常に空くもの」と断定している。しかしこれは一種の決めつけ、ドグマである。なぜなら、「常に」そうなのかという素朴な疑問に耳をかそうとしない物言いだからだ。だから作者の腕の見せどころは、このドグマを如何に普遍化するか,誰をもなるほどと納得させるるかにかかってくる。そこで、下五にもってきたのが「ももちどり」。上手いっと、私は唸りましたね。この下五で「小腹」は小鳥の腹の形状へと可視的に転化され,しかも小鳥が早起きしてさえずるのは空腹のためだから、生態的にもぴしゃりと合っている。先のドグマは、見事に「ももちどり」の愛らしい姿に吸引されてしまったというわけだ。普通の写生句は具体を言葉にするのだが、掲句は逆に言葉から出て具体を呼び込んでいる。ただし、この作り方は下手をすると、ついに具体に及ばない危険も伴うので,あまり人に薦める気にはなれないけれど。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


March 1732005

 青ぬたやかためにたきし昼の飯

                           片山鶏頭子

語は「青ぬた(青饅)」で春。ネギ、ワケギ、ホウレンソウなどの春先の野菜を茹でて、イカ、マグロなどと酢みそで和えたもの。なるほど、青ぬたは「ぬたぬたと(笑)」やわらかいので、ご飯は少し「かため」に炊くほうがよいだろう。私のような飲み助には酒の肴でおなじみだが、食膳の主菜としても美味しそうだ。熱々のかためのご飯に、つめたい青ぬた。それも昼食なのだから、室内は明るくて青ぬたの色彩も美しく,春の気分満点だ。食べ物の句は,このように美味しそうに作るのがなかなか難しい。ところで「ぬた」は何故「ぬた」と言うのか。手元の百科事典を見たら,「沼田(ぬた)のようにどろどろしているから」という説が紹介されていた。でも、「どろどろ」と形容するのはニュアンスが違うな。やはり「ぬたぬた」としか言いようがないような気がする。英語での似たような例を、アーサー・ビナードが書いていた。ある絵本を日本語に翻訳していて,"goo"という単語で行き詰まった。絵本ではテーブルの下に落ちている灰色の塊を指していて、英米人なら幼児期から誰でも知っている単語らしい。「ドロドロの液体か,グシャグシヤの固体か、その中間の半固体状態で粘り気のあるもの、ともかくベタベタあるいはヌメッとした物体を"goo"と呼ぶ」。だが、日本語には該当する適当な言葉がない。仕方がないので「だれかが おとした もの」とやったそうだが、これは絵本のその場面限定の翻訳であって,"goo"の本義にはほど遠いわけだ。これを読んだときに我らが「ぬた」も"goo"じゃないかと思ったけれど,どうなのだろうか。今度会ったら,聞いてみよう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 1632005

 青き踏む生まなくなつた女たち

                           早乙女わらび

語は「青き踏む(踏青)」で春。古い中国の行事から来た言葉だが,いわゆる野遊び、ピクニックなどを言う。ちょっとした春の散策やそぞろ歩きも含めて,幅広く使われているようだ。この場合は,比較的若い女性ばかり何人かでのハイキングだろうか。明るい日差しを浴びて,にぎやかに春の野を楽しんでいる女性たち。作者はその群像を傍見しつつ、ふっと最近の女性の多くが子供を「生まなくなった」ことを意識させられた。意識させられたからといって、それがどうしたというわけではないが、彼女らの屈託のなさや身軽さは、そのあたりから発しているような気がしないでもない。いずれにしても、戦後半世紀以上を経てみると,女性のありようも変われば変わったものだという感慨がわいてくる。で、ここからは私のヤマカンでしかないが、ひょっとすると句の「青き踏む」は、平塚らいてうの興した「青踏社」に掛けてあるのかもしれないと思った。「青踏社」の「踏」は正確な表記では「鞜」であるが、どちらも語源的には「踏む」の意を持つからか,両者とも普通に使われている。そこでこの句に、らいてうの有名な宣言「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ」を響かせると,いっそう味わい深くなる。彼女の言った意味で,果たして現代女性はまったき太陽を取り戻したと言えるのだろうか、それとも……。作品集「雁坂」(2004年12月・第11輯)所載。(清水哲男)




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