フジTVのTOBが成立。損をしてでも旧体制を守ったわけだ。郵政民営化の道も険しいぞ。




2005ソスN3ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0932005

 夢のまた夢に覺めけり櫻鯛

                           石 寒太

語は「櫻(桜)鯛」で春。真鯛のこと。産卵期を迎えて桜色の婚姻色に染まることと、内海や沿岸に桜の咲くころに集まってくることからの命名。ただし、おいしくなる旬は八十八夜を過ぎてからだそうだ。掲句は、作者若き日の佳作。「夢のまた夢」とは見果てぬ夢、所詮かなわぬ夢のことだから、目覚めたときにはとても悲しいものがあるだろう。「なあんだ夢か」ではすまされない絶望に近い哀しみだ。もしかするとこの鯛は既に捕われて、あるいは命を失って、作者の前に横たわっているのかもしれない。そう読めばますます悲哀感が募るけれど、しかし鯛の見た夢が見果てぬ夢であると詠むことにより、作者は美しい鯛ならではの気品と貫禄をそっと添えてやっていることがわかる。作者当時の作風について、筑紫磐井は「この作者の創る世界には、どこを探しても否定がないことに気づくだろう。否定たるべき死さえも、それは美しい生のいとなみの終焉のいろどりをそえるにすぎない」と書いている。鋭い視点だ。このまま、掲句にも当てはまる。すなわち、作者は桜鯛の悲しみを言いながら、そんな桜鯛を賞揚しているというわけだ。そして、こうした物事のつかみ方はひとり石寒太に限らず、多くの俳人に共通しているような気がする。乱暴な言い方をしておけば、同じ題材を扱っても、近代以降の詩人はこのようには書かない。いや、書けない。かつて茨木のり子は房総の禁漁区に鯛を見に行った詩で、禁漁区を設けた人間の愛が、実は鯛に対する「奴隷への罠たりうる」と書いた。多く詩人の目は、暗いほうへと向けられてきた。現代俳句文庫『石寒太句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


March 0832005

 夜のぶらんこ都がひとつ足の下

                           土肥あき子

語は「ぶらんこ」で春、「鞦韆(しゅうせん)」に分類。平安期から長い間大人の遊具だったのが、江戸期あたりからは完全に子供たちに乗っ取られてしまった。春を待ちかねた子供たちが遊んだことから、早春の季語としたのだろう。一茶に「ぶらんこや桜の花を待ちながら」がある。掲句は「夜のぶらんこ」だから、大人としての作者が漕いでいる。小高い丘の上の公園が想像される。気まぐれに乗ったのだったが、ゆったりと漕いでいるうちに、だんだんとその気になってきて、思い切りスゥイングすることになった。ぶらんこには、人のそんな本気を誘い出すようなところがある。「足」を高く上げて漕いでいると、遠くに見える街の灯が束の間「足」に隠れてしまう。その様子を「都がひとつ足の下」と言い止めたところが、スケールが大きくて面白い。女性がひとり夜のぶらんこに乗るといえば、なんとなく曰くありげにも受け取られがちだが、そのような感傷のかけらがないのもユニークだ。だから読者もまた、春の宵の暖かさのなかにのびのびと解放された気持ちになれるのである。ぶらんこを漕ぐといえば、思い出すのはアニメ『アルプスの少女ハイジ』のオープニングだ。彼女は、異様に長いぶらんこに乗っていた。で、あるヒマ人が計算してみたところ、ハイジは上空100メートルくらいを時速68キロで振り子振動をしていたことになるのだそうだ。シートベルトもせずによくも平気な顔をしていられたものだと驚嘆させられるが、それでも彼女には遠い「都」はちらりとも見えなかった。それほどアルプスは雄大なのである(笑)。「読売新聞」(2005年2月12日付夕刊)所載。(清水哲男)


March 0732005

 春や春まづはぶつかけうどんかな

                           有馬朗人

年の冬は長い。「春や春」には、まだとても遠そうな日がつづいている。誰かの短歌に「待っていればいずれは来るものを、人は何故わざわざ春を探しにいったりするのだろうか」、そんな趣旨のものがあった。この句をここに載せる私の気持ちも、やはり春を待望しているからなのだ。ああ待ち遠しい、寒いのはもうご免だ。掲句では、すでに春爛漫。外出先ですっかり嬉しくなって、なにはともあれ「ぶつかけうどん」で腹ごしらえをすることにした。うどんにもいろいろな種類があるけれど、この場合は「ぶつかけ」という言葉の勢いが気に入って注文したのだろう。「ぶつかけうどん」の味が好きというよりも、言葉が気分にマッチしての選択である。大袈裟に言えば時の勢い、別の何かを食べたくて店に入ったつもりが、メニューに並んだ料理名を見ているうちにふっと気が変わることはよくある。作者ははじめから「ぶつかけ」に決めていたのかもしれないが、いずれにしても言葉に惹かれたのには違いあるまい。食べるときにタレをぶっかけるとはいっても、それは言葉の綾というもので、実際には飛び散らないように静かにかける。お上品にも、いちいち別皿のタレにうどんをからめて食べるのは面倒だ。そこで、「えいっ」とばかりにぶっかける気持ちでかけるから「ぶつかけうどん」。東京辺りでも、まだまだ「ぶつかけ」ならぬ単なる「かけうどん」の似合う日がつづきそうだ(笑)。『不稀』(2005)所収。(清水哲男)




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