来年十一月に山口市で講演をすることに。売れっ子みたいだが、それ迄は何も無し(笑)。




2005ソスN2ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2222005

 猫の恋声まねをれば切なくなる

                           加藤楸邨

語は「猫の恋」で春。誰でも知っている恋猫の声だが、子供ならばともかく、大の大人になって真似してみる人がいるだろうか。私には真似した記憶がないけれど、しかしこの句を読んで、けっこう多くの人が真似しているような気がしてきた。実際、人はひとりでいるときに、何をしでかしているかわからないものだ。片岡直子に「かっこう」という詩があって「誰もいないへやで/私だけいるへやで//私は素敵なかっこうをしてみます//足をたくみにからませて/のばしてみたり……」とあるように、誰にもこうした似たような体験はあるだろう。猫の声を出してみることは、猫の気持ちになってみることである。一所懸命に鳴きまねをしているうちに、自分がどんどん恋に狂う猫になってくるのだから、ついには「切なくなる」のも当然だ。春愁一歩手前みたいな気分になったに違いない。ところで今日二月二十二日は「にゃん・にゃん・にゃん」の語呂合わせで「猫の日」である。恋猫の目立つシーズンだから、タイミングもちょうど頃合いだ。では、この日が決まってから、負けてはならじと招き猫愛好者が作った「招き猫の日」をご存知だろうか。日にちは九月二十九日。これをおめでたく「くるふく」と読んで制定したのだという。なんだか「くにく」のアイディアのようでもありますが(笑)。『猫』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


February 2122005

 排水口にパーの手が出るおぼろ月

                           三宅やよい

語は「おぼろ月(朧月)」で春。やわらかな薄絹でも垂れているような甘い感じの月の夜に、なかば陶然としながら歩いていると、突然眼前の「排水口」からにょきっと「パーの手」が出てきた。もちろん想像の世界を詠んだわけだが、この想像は怖い。出てきたのが手でなくても怖いけれど、それもジャンケンのパーの形の手だというのだから、そこには手を出した正体不明者のからかいの気分が込められているようで、余計に怖く感じられる。実景だったら、声もあげられずに立ちすくんでしまうだろう。掲句から思い出したのは、映画『第三の男』のラストに近いシーンだ。麻薬密売人のオーソン・ウェルズが地下水道のなかで追いつめられ、背中をピストルで撃たれる。それでも必死に逃げようとして、地上に通ずる排水口を押し上げるために、鉄枠を握りしめる場面があった。カメラはその手を地上から撮っていて、いったんは握りしめていた手がだんだんと力弱く開いていき、間もなく見えなくなってしまう。彼の死を暗示する秀逸なカットだったが、これも見ていてぞくっとするくらいに怖かった。この場合は正体不明者の手ではないのだが、しかし常識ではあり得ないはずのことが目の前で起こるということは、やはり心臓にはよろしくないのである。ひっかけて言えば、この句は季語「おぼろ月(夜)」の常識を逆手に取ることで、ユニークな作品になった。この発見は凄い。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


February 2022005

 淡雪富士ひとつの素船出てゆくも

                           赤尾兜子

語は「淡雪」で春、「春の雪」に分類。美しい写生句だ。作者名が伏せられていれば、前衛俳句の旗手として知られた兜子の句とは思えない。柔らかい春の雪が降りしきる富士の裾野の湖から、何の変哲もない一掃の船が漕ぎ出されたところだ。その「素船(すぶね)」は淡雪を透かして、静かに黒々と沖に向かっていく。無音、そしてモノトーン、さながら一幅の墨絵を思わせる情景だ。この句に触れて小林恭二は「しかしこの『出てゆくも』という反語は何なのでしょうね」と書いている(「俳句研究」2005年3月号)。「おそらく兜子は強めの表現として反語を使っているのではなく、余韻を響かすために反語を使っているのでしょう。そしてその余韻のなかにこそ、真に語るべきものがあると考えていたのでしょう。それはひょっとしたら俳句の本道かもしれません」。結局は同じ解釈になるのかもしれないが、私はこの解答のない反語を作者のニヒリズムの表白のように思う。眼前の世界が美しければ美しいほど、その美しさの生命は短いということ。まるで淡雪のようにそれははかなく消えてしまうのだという確信が、作者には(たぶん何事につけても)抜き難くあった。だから、ただ情景の美しさを句に定着させる気持ちなどはさらさらなくて、むしろ情景の滅びのほうに力点を置こうとしている。滅びの予感を詠み込む方法として、曖昧な反語を使わざるを得なかったのだ。すなわち、眼前の現在に未来をはらませる必要からの反語なのだろうと思った。『玄玄』(1982)所収。(清水哲男)




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