ヤンキース・松井が自主トレ開始。日本のキャンプ情報より米国のほうが多い。変な国。




2005年2月21日の句(前日までの二句を含む)

February 2122005

 排水口にパーの手が出るおぼろ月

                           三宅やよい

語は「おぼろ月(朧月)」で春。やわらかな薄絹でも垂れているような甘い感じの月の夜に、なかば陶然としながら歩いていると、突然眼前の「排水口」からにょきっと「パーの手」が出てきた。もちろん想像の世界を詠んだわけだが、この想像は怖い。出てきたのが手でなくても怖いけれど、それもジャンケンのパーの形の手だというのだから、そこには手を出した正体不明者のからかいの気分が込められているようで、余計に怖く感じられる。実景だったら、声もあげられずに立ちすくんでしまうだろう。掲句から思い出したのは、映画『第三の男』のラストに近いシーンだ。麻薬密売人のオーソン・ウェルズが地下水道のなかで追いつめられ、背中をピストルで撃たれる。それでも必死に逃げようとして、地上に通ずる排水口を押し上げるために、鉄枠を握りしめる場面があった。カメラはその手を地上から撮っていて、いったんは握りしめていた手がだんだんと力弱く開いていき、間もなく見えなくなってしまう。彼の死を暗示する秀逸なカットだったが、これも見ていてぞくっとするくらいに怖かった。この場合は正体不明者の手ではないのだが、しかし常識ではあり得ないはずのことが目の前で起こるということは、やはり心臓にはよろしくないのである。ひっかけて言えば、この句は季語「おぼろ月(夜)」の常識を逆手に取ることで、ユニークな作品になった。この発見は凄い。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


February 2022005

 淡雪富士ひとつの素船出てゆくも

                           赤尾兜子

語は「淡雪」で春、「春の雪」に分類。美しい写生句だ。作者名が伏せられていれば、前衛俳句の旗手として知られた兜子の句とは思えない。柔らかい春の雪が降りしきる富士の裾野の湖から、何の変哲もない一掃の船が漕ぎ出されたところだ。その「素船(すぶね)」は淡雪を透かして、静かに黒々と沖に向かっていく。無音、そしてモノトーン、さながら一幅の墨絵を思わせる情景だ。この句に触れて小林恭二は「しかしこの『出てゆくも』という反語は何なのでしょうね」と書いている(「俳句研究」2005年3月号)。「おそらく兜子は強めの表現として反語を使っているのではなく、余韻を響かすために反語を使っているのでしょう。そしてその余韻のなかにこそ、真に語るべきものがあると考えていたのでしょう。それはひょっとしたら俳句の本道かもしれません」。結局は同じ解釈になるのかもしれないが、私はこの解答のない反語を作者のニヒリズムの表白のように思う。眼前の世界が美しければ美しいほど、その美しさの生命は短いということ。まるで淡雪のようにそれははかなく消えてしまうのだという確信が、作者には(たぶん何事につけても)抜き難くあった。だから、ただ情景の美しさを句に定着させる気持ちなどはさらさらなくて、むしろ情景の滅びのほうに力点を置こうとしている。滅びの予感を詠み込む方法として、曖昧な反語を使わざるを得なかったのだ。すなわち、眼前の現在に未来をはらませる必要からの反語なのだろうと思った。『玄玄』(1982)所収。(清水哲男)


February 1922005

 京雛の凛凛しき肩に恋心

                           磯田みどり

雛
語は「雛」で春、「雛祭」に分類。「雛」と「恋(心)」との取り合わせは、よくありそうでいて、実は珍しい。愚考するに、雛祭りの主役である人形は常に男女一対であり、そのことは恋の成就を既に体現しているのだから、雛壇に恋風が吹くことはないと思うのが普通だろう。結婚披露の場で、あらためて二人の恋を感じることがないのと同じことだ。ところが、作者は雛飾りをみているうちに、読者にはどの人形かはわからないが、その「肩」あたりに恋の微風が吹いているようだと感じたのだった。態度はあくまでも凛々しく毅然と目を張ってはいても、そこはかとなく匂い出ている恋する心。写実的な江戸雛とは対照的な「京雛」のふくよかな顔が、そうした連想を呼んだのだろうか。しばし立ち去り難く、雛に見入っている作者の姿までが浮かんでくるような句だ。ところろで、写真(見にくくてすみません)は近着の「俳句研究」(2005年3月号)の表紙。イラストを一見して「あれっ」と思った読者もおられるだろう。つまりこれが伝統的な「京雛」の飾り方で、向かって右側に内裏雛が配されている。京阪地方では、いまでもこの飾り方にする家庭は多いはずだ。昔の江戸でも同じ配置だったが、明治期の西洋化の影響で天皇家の男女の並び方が変わったことから、いまでは左側に男というのが一般的になっている。全国誌である「俳句研究」が、あえて珍しい京風の表紙にしたのは何故なのだろうか。『柳緑花紅』(2005)所収。(清水哲男)




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