『恥辱』のクッツェ ー翻訳書が三鷹図書館に全てあった。早速『少年時代』を借りてくる。




2005ソスN1ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 3112005

 人参は丈をあきらめ色に出づ

                           藤田湘子

語は「人参(にんじん)」で冬。大人になっても苦手な人がいるけれど、私は子供のころから好きだった。でも、正直言って最近のものには美味くないのが多い。当時は掘りたての人参を生でも食べていたのだから、よほど甘味に飢えていたのか、あるいは本当に品質が良かったのか。それはともかく、掲句はまことに言い得て妙だ。世の中にはひょろ長い品種もあるのだそうだが、たいていの人参はゴボウなどのように「丈」長くは生長しない。ずんぐりしている。それを作者は人参が「丈をあきらめ」たせいだと言い、その代わりにあきらめた分だけ「(美しい)色に」出たのだと言っている。なるほどねえと、多くの読者は微笑するに違いない。むろん、私もその一人だ。ただ、句では人参が擬人化されていることもあって、なかには人生訓的に読もうとする人もありそうだが、それは作者の意図に反するだろう。この句の生命は、あくまでも人参のありようをかく言い止めたウイットにあるのであって、もっともらしく教訓的にパラフレーズしてしまっては何のための句かわからなくなってしまう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」などの俳句もどきとは違うのである。ウイット無き俳人は問題にならないが、ウイット無き読者も同断だ。しゃかりきになってこんなことを言う必要もないのだけれど、ちょっと気になったので……。俳誌「鷹」(2005年2月号)所載。(清水哲男)


January 3012005

 夜は水に星の影置き冬の菊

                           加藤耕子

語は「冬(の)菊」。当歳時記では、一応「寒菊(かんぎく)」に分類しておく。芭蕉の昔より「寒菊」「冬菊」の句は多いが、冬季は花が少ないので自然にこの花に注目が集まるということだろう。が、掲句のように冬の夜の菊を詠んだものは珍しい。池のほとりに咲いている冬の菊。今宵の空は煌煌と冴え渡り、「水」は「星の影」をくっきりと写している。その星々と白い菊の花が、まったき静寂の中で澄み切っている様が目に浮かぶ。がさがさとせわしない現代人の暮らしの中にも、心を鎮めれば、こうした情景をとらえることができるのだ。その意味で、この句は私をはっとさせた。叙景句、あなどるべからず。ところで、季語「冬菊」を「寒菊」とは別種なので別項目にしている歳時記がある。最も新しいものでは、講談社版『花の歳時記』(2004)がそうだ。それによると「冬菊」は普通種の遅咲きを指し、「寒菊」は「島寒菊(油菊)」を改良した園芸品種を指すのだという。そして「(これらを)混同している歳時記が多い」と書いてある。しかし私は、それはその通りだとしても、あえて「混同」的立場に立っておきたい。なぜならば、多くの歳時記がどうであれ、肝心の俳人たちが明確に「冬菊」と「寒菊」の違いを承知した上で詠んできたとは、とても思えないからなのだ。たとえば芭蕉の有名な「寒菊や粉糠のかゝる臼の端」にしても、この菊は園芸種でないほうがよほど似つかわしいではないか。それに別建て論者が典拠とする『江戸名所花暦』は文政11年(1827年)の刊行だから、むろん芭蕉が知り得たはずもないのである。掲句は俳誌「耕」(2005年2月号)所載。(清水哲男)


January 2912005

 遊び降りにたちまち力山の雪

                           矢島渚男

語はもちろん「雪」であるが、「遊び降り」という言い方にははじめて接した。作者は長野の人だから、信州あたりでは普通に使われている言葉なのだろう。はじめての言葉だが、だいたい察しはついたつもりだ。ちらりちらりと降るともなく降ってくる雪。その様子が、いかにも悪戯っぽく「遊び」めかしたような降り方に思えることからの言い方だと思う。味のある言葉だ。しかし遊び降りだからといって、「山の雪」をあなどってはいけない。東京あたりだと、ちらちらはちらちらのままに終わってしまうことが多いけれど、雪国の山中ではまさに句にあるごとく、ちらちらに「力」を得たかのように「たちまち」視界を遮るほどの本降りに変わっていく。雪国とまでは言えなくとも、我が故郷での少年時代には何度も同じような降り方を体験した。下校時にちらちらっと来たら、一里の道を一目散に家をめがけたものだ。掲句にそんなことも思い出したが、この「力」の使い方が実に巧みだ。なんでもないようだけれど、この「力」は情景的な雪のそれにとどまらず、句全体を引き締める力としても働いている。妙な言い方になるが、句のいわばフンドシとして機能している。であるがゆえに、読む側にもキリリとした力が渡されるというわけだ。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)




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