図書館で気紛れに借りたJ.M.クッツェ ー『恥辱』(早川書房)に感心。著者は南ア出身。




2005ソスN1ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2812005

 寒き夜や父母若く貧しかりし

                           田中裕明

年末に急逝した作者の主宰誌「ゆう」の二月号が届いた。最後の作品として、掲句を含む二十二句が載せられている。むろん、彼はこの最新号を目にすることはできない。彼はあまり自分の育ちなどについては詠まないできた人という印象があるので、おやっと目が止まってしまった。他のページに「いまはあいにく入院中で、おおかた病院の中にいます」とあるから、この句も病院で詠まれたものだろう。入院という環境が、「家族」を強く意識させたということにもなろうか。とりたてて家族への新鮮な視点があるわけではないけれど、貧しくはあったが、あのころがいちばん良かったかなというつぶやきが聞こえてきそうな句だ。いまの自分よりももっと若かった父母を中心に、「寒き夜」に家族が身を寄せあっている情景は懐かしくも心温まる思い出だ。両親が貧しさと戦う武器は「若さ」のみ。生活の不安や悩みには重いものがあったろうが、子供としての作者にはわかるはずもない。ただ両親の若さによる活力を頼もしく思い、庇護されていることの心地よさだけがあった……。作者とはだいぶ年代が違うのだが、敗戦時に子供だった私たちの世代には、もうこれだけでぐっと来てしまう句だ。なお「ゆう」は、もう一冊「田中裕明主宰追悼号」を出して終刊となる。(清水哲男)


January 2712005

 吸殻に火の残りをる枯野かな

                           山口珠央

語は「枯野」で冬。誰が捨てたのか、煙草の吸殻が落ちている。気になったので立ち止まってよく見ると、まだかすかに火がついたままだ。うっすらと煙も立ち上っている。あたりは一面の「枯野」原だ。危ないではないか、火事になったらどうするのだ。捨てるのならば、消えたかどうかをきちんと確認してほしいものだ。……といったような、心ない煙草のポイ捨てにいきどおっている句では、実はないだろう。作者が意図したのはおそらく、眼前に広がる枯野がどのような枯野なのかを、描写的にではなく実感的に提示したかったのだと読む。だから実際にそこに吸殻は落ちていなかったのかもしれないし、落ちていたとしても完全に火は消えていたのかもしれない。いずれにしてもそこに火の消えていない吸殻を置くことによって、見えてくるのはいかにも乾いていてよく燃えそうな枯れ木や枯れ草、枯れ葉の一群であり、それらが延々と広がっている情景だ。いかに描写を尽くそうとも伝わらないであろう実感的な情景を、小さな吸殻に残ったちいさな火一つで伝え得た作者のセンスはなかなかのものだと思う。作者の句としては、他に「トラックやポインセチアを満載に」「古物屋や路地にせり出す炬燵板」などがある。いままで知らなかった名前の人だが、こういう才能を見つけると嬉しくなってくる。煙草が美味い。「俳句」(2005年2月号・「17字の冒険者」欄)所載。(清水哲男)


January 2612005

 わが肩に霞網めく黒ショール

                           梶川みのり

ショール
語は「ショール」で冬。最近のこの国でショール(肩掛け)といえば、なんといっても成人式での和装女性のそれが目に浮かぶ。申し合わせたように誰もが白いショールを羽織っているけれど、なかなかサマになる人はいないようだ。和装のついでに肩に無理矢理乗っけているといった感じ……。むしろ無いほうがすっきりするのにと、他人事ながら気がもめることである。ま、和装それ自体に慣れていないのだから、無理もないのだろうが。ところで、掲句のショールは洋装用だろう。写真は某社の商品カタログから抜いてきたものだが、「霞網(かすみあみ)めく」というのだから、たとえばこんなアクセサリー風の感じかしらん。たまに見かけることがある。おそらく作者は普段からすっと着こなしていて、しかしあるときいつものように肩に掛けると、なんだかふっと霞網にでもかかったような気持ちになったと言うのだ。ショールが霞網に感じられたということは、纏った作者自身はからめとられた不幸な小鳥ということになる。むろんそこまで大袈裟な感覚的事態ではないのだが、そうした想いが兆す作者の心の奥底に、私は自愛と自恃のきらめきを感じる。そのきらめきが、黒いショールを透かしてちらりちらりと見え隠れしているところに、この句の魅力があるのだと思った。『転校生』(2004)所収。(清水哲男)




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