いかがお過ごしでしょうか。昨日に変わらぬ今日だとしても、暦の区切りはやはり新鮮。




2005ソスN1ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0112005

 初茜鶏鳴松をのぼりけり

                           櫛原希伊子

けまして、おめでとうございます。この清冽な抒情句をもって、2005年のスタートとします。季語は「初茜(はつあかね)」で新年。初日の出る直前の東の空はほのぼのと明るくなり、やがて静かに茜色がさしてくる。身も心も洗われるように清々しくも、しかし束の間のひとときだ。とりわけて、電灯の無かった時代の人々には、待ちかねた新年の光に心の震える思いがあっただろう。その昔から現代にいたるまで、いまの都会では無理だとしても、この時間になるといちばんに雄鶏が「咽喉(のんど)の笛を吹き鳴らし」(島崎藤村「朝」)てきた。その雄叫びにも似た「鶏鳴(けいめい)」は、句の作者も自注で記しているように、赤のイメージだ。その赤き声が、茜空をバックに黒々と大地に根を生やした「松」の大木にのぼってゆく……。まさに、自然が巧まずして描き上げた一幅の画のようではないか。いや、句の作者その人が巧まずして描いたからこそ、そのように受け取れるのだ。このような句に出会うとき、俳句という文芸を知っていて良かったと、しみじみと思う。この毅然とした鶏鳴が、なにとぞ本年の世界中の人々の幸せにつながりますように。祈りながら、今年も当サイトを増殖させてゆく所存です。よろしく、おつきあいくださいますように。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)


December 31122004

 除夜の月機械に注連を張りおわる

                           飴山 實

うした「除夜」の光景も、そんなに珍しいことではなかった。1956年(昭和三十一年)の句。戦後も、まだ六年目だ。大晦日まで「機械」を稼働させて、暗くなってからやっと仕事が終わり、ともかくも新年を迎えるための「注連(しめ)」を張り終わった。いわゆる一夜飾りは良くないと知ってはいるものの、生活のためには、そんなことを言ってはいられない。張り終えてほっと安堵した目に、仕事場の窓を通して、冴えかえる小さな月が認められた。来るべき年にさしたる目算もないけれど、どうか佳い年であってくれますように……。そんな思いが、自然に湧いてくる。このとき、作者は三十歳。「俳句をつくっていく中で、歴史を動かす一モメントとしての自分の位置と力を探りだし、確かめていきたい」と書く。この気概、現代俳人にありや、無しや。話は変わるが、除夜といえば除夜の鐘。アメリカ流のカウントダウンなどとは違って、撞きだす時刻は特に定まってはいない。おおよそ午前零時近くになって撞くわけだが、これにはもとより理由がある。というのも、現代の私たちは一日を「朝から」はじまるととらえているが、昔の日本人は「夜から」はじまると考えていた。つまり、日暮れてくると、もうそこにはかすかに「明日」が兆してくるのである。だから、午前零時ぴったりで日付が変わるという観念は薄く、今日と明日とはグラデーションのように徐々に移り変わってゆく。したがって、鐘撞きの開始を時計に合わせる必要はないというわけだ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 30122004

 搗きたての冬雲の上ふるさとへ

                           正木ゆう子

語は「冬(の)雲」。いまや「ふるさと」へも飛行機で一っ飛びの時代だ。帰省ラッシュは今日もつづく。句のように、弾んだ心で乗っている人もたくさんいるだろう。地上から見上げると空を半ば閉ざしている暗い冬の雲も、上空から見下ろせば、日の光を浴びてまぶしいほどに真っ白だ。そのふわふわとした感じを含めて、作者はまるで「搗きたての」餅のようだと詠んでいる。いかにも子供っぽい連想だが、それだけ余計に読者にも楽しい気分が伝わってくる。ただしこの楽しさは、私のような飛行機苦手男には味わえない(笑)。なんとも羨ましい限りである。話は句から離れるが、その昔、ぎゅう詰めの夜行列車に乗っていて、よくわかったことがあった。周囲の人の話を聞くともなく聞いていると、帰省ラッシュとはいっても、楽しい思いで乗っている人ばかりじゃないということだった。年末年始の休暇を利用して厄介な話し合いのために帰るらしい人がいたり、都会暮らしを断念して都落ちする人がいたりと、乗客の事情はさまざまだ。そんな人たちを皆いっしょくたにして、テレビ・ニュースは帰省の明るさだけを強調するけれど、あのように物事を一面的楽天的にとらえるメディアとは何だろうか。そこで危険なのは、私たち視聴者がそうした映像に引きずられ慣れてしまうことだ。何も考えずに、物事に一面的楽天的に反応してしまうことである。テレビは、生活のための一つの道具でしかない。その道具に、私たちの感受性をゆだねなければならぬ謂れは無い。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)




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