スマトラ島沖大地震。情報不足が深刻。情報化社会などといっても網は狭くしかも脆い。




2004ソスN12ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 29122004

 吹きたまる落葉や町の行き止まり

                           正岡子規

語は「落葉」。歳末風景とは限らないが、押し詰まってきたころに読むと、ひとしお実感がわく。どこか侘しくも淋しい雰囲気があって、それがまた往く年を惜しむ気持ちにふんわりと重なるからだ。今年の落葉は遅めのようで、我が町ではまだ銀杏の葉が盛んに散っている。よく行く図書館への道筋に、ちょうど「行き止まり」の場所があって、まさに掲句のような感じだ。日頃はボランティアで掃除をしている老人も、最近は寒いせいか見かけない。となれば落葉はたまる一方で、ときおり風に煽られてはかさこそと音を立てている。しかし私は、きれいに掃除された町よりも、落葉がたまっているような場所が好きだ。汚いと言って、眉をひそめる人の気が知れない。というよりも、そもそも落葉を汚いと感じる神経がわからない。最近では隣家の落葉に苦情を言いにいく人もいるそうで、いったい日本人の審美眼はどうなっちゃってるのだろうか。句に戻れば、この風情は今日(きょう)あたりからの「町」ならぬ「街」でも味わえる。潮のように人波が引いてしまった官庁街やビジネス街を通りかかると、あちこちに落葉が吹きたまっている。年末年始とも、長い間麹町の放送局で仕事をしていたので、そんな侘しい光景は何度も目撃した。たしかに侘しいけれど、なにか懐かしいような気分もしてきて、実は密かな私の楽しみなのであった。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


December 28122004

 古暦あへなく燃えてしまひけり

                           成瀬櫻桃子

語は「古暦」で冬。本当は昨年の暦のことだが、年も押し詰まって新しい暦を入手すると、これまで使用してきたものが古く感じられることから、今年の暦も指す。俳句では、たいてい後者の意で使われているようだ。昔の我が家でもそうだったが、暮れの大掃除があらかた終わると、裏庭などで焚火をした。燃やせるゴミは、そこで燃やしてしまおうというわけだ。燃やせないゴミは、穴を掘って埋めたりした。だが、ただどんどん燃やしていくのではなく、年の瀬の気持ちとしては「ねんごろに古きもの焼き年惜しむ」(森絢子)と、普段よりもていねいな燃やし方になる。とくに手紙やノートの類だとか雑誌などになると、その年の思いが籠っているので、より「ねんごろ」にならざるを得ない。むろん「古暦」についても同じことで、掲句の作者は同じ気持ちで燃やしたのだったが、予想以上に早く「あへなく」灰になってしまったというのである。もう少しゆっくりと燃えてくれればよかったのに、なんだか、この一年があっけなく終わってしまったような感じがしてくるじゃないか……。一般的に、雑誌などの紙の束はなかなかすんなりとは燃えてくれない。が、この時期の暦の場合はほとんど台紙だけになっているので、紙束を燃やすようなイメージを持って焼くと、意外にあっけなくて拍子抜けしてしまうほどだ。おそらく作者の場合も、そういうことだったに違いない。『風色』(1972)所収。(清水哲男)


December 27122004

 十二月肉屋に立ちて男の背

                           正木浩一

の「十二月」は、年も押し詰まってきたころを思わせる。奥さんにでも、買い物を頼まれたのだろうか。ふだんなら主婦の姿しか見かけない「肉屋」の店先に、ひとり「男」が立っている。通りがかりの作者はオヤッと一瞥したに過ぎないが、彼の「背」からなんとなく躊躇しているような様子が読み取れてしまった。作者の直感は、まず間違いなく当っているだろう。こういうときの背中は雄弁なのだ。そしてこれも、微笑ましい歳末風景の一齣である。実際、慣れない場所にいる人というのは、表情を読むまでもなく、すぐにわかってしまう。日頃から人が集まる場所には、それなりに形成される自然の流れというものがあり、慣れない人にはその流れが身体でつかめないからだ。だから、動きがギゴチなくなる。広いスーパーマーケットであろうと、狭い肉屋であろうと同じこと。どこで、何をどうするか。頭でわかっているだけでは、身体をスムーズに流れに乗せることはできない。反対に慣れた空間では、頭よりも身体が先に動くという具合に行動できる。これはおそらく、慣れた場所では身体の各部に遊びがあるからに違いない。目的に向かって一直線ではなく、自然なふるまいというものは身体的な遊びが起こさせるのだと思う。どんなに良く出来たロボットでも、どこか動作がギゴチないのは遊びが足らないせいではなかろうか。すなわち、身体の無駄な遊びが無駄のない動きを作り出すということだろう。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)




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