緊縮予算が聞いてあきれる。増税頼みが見え透いている。こんな政府は早くつぶさねば。




2004ソスN12ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 21122004

 山国にがらんと住みて年用意

                           廣瀬直人

語は「年用意」で冬。新年を迎えるための諸支度。ミソは「がらんと住みて」だ。家の中が「がらんと」しているなどと使う「がらんと」であるが、それを「山国」全体に適用したところがユニークである。いかにも茫洋とした山国の空間を言った上で、なおゆったりとした時間の流れをも暗示している。平常はそんな時空間に暮らしている我が身でも、この時期になると、それなりの「年用意」でけっこう忙しい。大掃除や障子貼り、外回りの繕いや松飾りの手配などがあり、さらには正月用の買い物もある。平素は「がらんと住みて」いるがゆえに、それだけ余計にせわしなく感じられるということだろう。年中行事のあれこれについては、都会よりも田舎のほうが気を使う。都会では何の支度もせずに新年を迎えても、誰も何とも言いはしないけれど、田舎ではなかなかそうはいかない。あからさまに指摘はされずとも、村落共同体の目が、いつも厳しく光っているからだ。少なくとも表面的には、世間並みにつきあっていく必要がある。抜け駆けも許されないが、故意のドロップアウトも許されない。昔から、みんなで足並みを整えていくというのが、村落共同体の生き残る知恵であり、暮らしの条件なのであった。現代に至っても、その基調にはなお根強いものがあると思う。田舎の友人と話したりするとき、そのことをよく感じる。『矢竹』(2003)所収。(清水哲男)


December 20122004

 集乳缶深雪を運び来て冷めず

                           中川忠治

人協会会員を対象にした「第11回俳句大賞」で、最高点を得た句。選考委員のなかで、この句を最も推したと思われる鈴木貞雄の選評は次のようだ。「山の牧場であろう。決まった時間に搾乳室で牛の乳を搾り、大きな集乳缶に入れて運んでくる。深雪をきしませ、白い息を吐きながら運んでくるのだ。しかし、集乳缶の中の乳は、搾った時のままの温さを保っている。深雪の中に生きる乳牛の命の温みが、伝わってくるようである」。解釈としては、この通りだろう。が、この句のいちばんのチャーム・ポイントを言うとすれば、もう少し付け加える必要がある。それは、句に二つの主体が出てくる点だ。すなわち「集乳缶」を運んでくる主体と「冷めず」と断定している主体とは、明らかに違う。前者の主体は牧場の人であり、後者のそれは作者である。もとよりこうした主体入れ替えの手法はさして珍しくはないけれど、一句のどのあたりで入れ替えるかがポイントだ。作者の、いわばセンスの見せどころとなる。掲句では、それが最後の三文字「冷めず」で適用されており、その唐突さによって読者への衝撃力が高まった。つまり内容的にはあくまでも暖かい句なのだが、手法的にはクールそのものである。この段差が、句を引き締めている。俳人協会機関紙「俳句文学館」(第404号・2004年12月5日付)所載。(清水哲男)


December 19122004

 賀状書く心東奔西走す

                           嶋田摩耶子

語は「賀状書く」。私もそうだが、今日あたりは賀状書きに専念する人が多いだろう。そういう日に読むと、この句はまさにどんぴしゃりだ。「東奔西走(とうほんせいそう)」には、二つの意味が重ねあわされていると思う。一つは、賀状の宛先は全国各地に散らばっているので、それぞれの地域に束の間あわただしく思いを馳せての「東奔西走」である。もう一つは、賀状書き以外の年用意のことが気になってのそれだ。賀状書きも大事だけれど、新年を迎えるまでにやるべきことが他にもたくさんある。書きながら、ついつい他のあれもこれもと「心」が飛び回り、なかなか落ち着けない状態を言っている。むしろ後者の意味に、句の比重がかけられているような……。もっとも、最近は宛名をプリンターで刷りだしている人が増えてきたので、前者のような心持ちは薄れているだろう。私は宛先のみ、いまだに手書きだ。受け取る相手に失礼というよりも、どこかを手書きにしないと出した実感が残らないからである。手応えが無い。さて、今日は何枚書けるだろうか。年内の原稿仕事も何本か残っていて、しかも締め切り日が過ぎているのもあって、きっと「心」は大いに「東奔西走」することだろう(笑)。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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