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2004ソスN12ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 12122004

 初雪は隠岐に残れる悲歌に降る

                           野見山朱鳥

語は「初雪」。724年(神亀元年)に、公式に流刑地として定められた「隠岐」島。以来、江戸時代末期まで1000年以上にわたり、主に身分の高い政治犯が流された。有名どころでは、小野篁(小野小町の祖父)、後醍醐天皇、後鳥羽上皇がいる。前二者がしぶとくも再起を果たしたのに対して、鎌倉幕府転覆に失敗した後鳥羽上皇は、数人の側近とともに再び京の都へ帰ることを強く望みながら、崩御するまでの19年間にわたって島暮らしを余儀なくされた。彼は歌聖とも呼ばれた歌作りの名手であったから、この間に多くの歌を詠んでいる。「眺むればいとど恨みもますげおふる岡辺の小田をかへすゆふ暮」。恨みと涙と諦念と……。それらの歌からは、いまにしても深い絶望感が伝わってくる。すなわち、悲歌である。そうした悲しい歴史を持つ隠岐に、初雪が舞いはじめた。灰色の空と海を背景に舞う白いものの情景を、ずばり「悲歌に降る」と言い止めた技倆は素晴らしい。これで、俳句の寸法が時空間に大きく広がった。作者自身が、このとき歴史の中に立ったのである。上皇が見たのと同じ初雪を感じているのだ。余談ながら現在の隠岐には、後鳥羽院の歌を集めた「遠島百首かるた」があるそうである。『幻日』(1971)所収。(清水哲男)


December 11122004

 まだ使ふ陸軍毛布肩身さむ

                           平畑静塔

語は「毛布」で冬。句としてはどうということもないけれど、戦後生活のスケッチとして残しておきたい。「陸軍毛布」は、戦前戦中に陸軍で使ったもの。白っぽい海軍毛布とは違い、いわゆる国防色(カーキ色)だった。父が陸軍だったので、戦後の我が家では毛布のみならず飯盒や水筒にいたるまで、国防色だらけ。敗戦時に、それらを兵隊が持ち帰り、日常生活に使用していたわけだ。毛布と言っても、ふわふわしていない。極端に言えば、薄いカーペットみたいだった。だから着て寝ても、「肩身さむ」となるわけである。ふわふわの毛布が欲しくても、高価で買えない。我慢するしかない。その侘しさよ。句の発表時には、多くの人が思い当たり共感したことだろう。軍隊毛布のごわごわ・ごつごつは、むろん堅牢性耐久性を考えてのことだ。触ったことはないが、いまの自衛隊の毛布でも、相当なごわごわ・ごつごつではないだろうか。そういえば軍隊に限らず、プロ仕様の装備品や用具類は、現代の物でもたいていがごわごわ・ごつごつしている。たとえばプロ野球のユニフォームでも、草野球のそれなどとは大違いだ。数回すべりこんだら破れてしまうような、ヤワな出来ではないのである。現代の私たちはすっかりふわふわした物に慣れきってしまっているが、このことが心理的精神的にもたらしている影響は計り知れず大きいに違いない。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 10122004

 木枯やいのちもくそと思へども

                           室生犀星

語は「木枯」で冬。67歳(1956)の日記に「ふと一句」として、この句が書かれている。知人にも手紙で書き送っているが、もとより発表を意図したものではない。それだけに、かえって犀星の心境が赤裸々に伝わってくる。ヤケのやんぱち。どうにでもなりやがれ。とは思うものの……。と、心が揺れているのは、体調がすこぶる悪く、医者通いの日々がつづいていたからだ。何種類かの薬を常飲し、注射を打ち、血圧は午前と午後に二度計っている。このころの犀星は創作意欲にみなぎっていたと思われるが、如何せん、身体がついてきてくれない。そのことからくる焦りが、「ふと」掲句を吐かせたのだった。しかし、そうした肉体的な衰微と闘いつつ、この年に『舌を噛み切った女』、翌年には『杏っ子』、そのまた翌年には『わが愛する詩人の伝記』と、矢継ぎ早に秀作を発表しつづけた。当時リアルタイムでこれらを読んでいた私には、彼が人生的幸福の絶頂にあると感じていたけれど、しかし人のありようとはわからないものだ。いかに世俗的な成功をおさめようとも、そんなものが何になる。肉体の衰えを抱いていた犀星は、きっと孤独のうちに悶々としていたにちがいない。元気がなにより。これは凡人の気休めなどではなく、永遠の真実だと、最近の私はつくづく思う。(清水哲男)




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