師走というのに、まだ台風が動き回っている。今年は実に奇っ怪な年ですね。要御祓い。




2004ソスN12ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 04122004

 おでん煮る玉子の数と頭数

                           奥村せいち

語は「おでん」で冬。「煮込み田楽」の略称(って、ご存知でしたか)。昔の関西では「関東だき」と言っていたけれど、いまではどうだろうか。句意は明瞭。どこの家庭でも、おでんの大きな具は人数分だけ煮る。当たり前と言えば当たり前だ。が、ここに着眼して詠んだ作者の気持ちには、この当たり前を通じて、庶民の暮らしのつつましさ全体を表現したいという意図がある。おそらくは、かつての食糧難時代を経験された方だろう。いまでこそ食べようと思えばいくつでも食べられる玉子だが、当時はとても高価で、なかなか口に入らなかった。現在「頭数」分だけ煮るのは、むろん食糧難を思い出してのことではないけれど、しかしどこかに過剰な贅沢に対する躊躇の意識があって、そうしていると言えなくもない。食糧難の記憶は、体験者個々人のそれを越えて、社会的なそれとして残存しているような気がする。だからまず現在の家計にはほとんど影響しない玉子でも、依然として一人一個ずつなのではなかろうか。作者のような目で生活を見つめてみると、他にも同じようなことが発見できそうだ。個人が忘れ去ったこと、あるいは体験しなかったことでも、社会が代々受け継いで覚えているという証が……。掲句に、そういうことを考えさせられた。俳誌「航標」(2004年12月号・「今年の秀句五句選」欄)所載。(清水哲男)


December 03122004

 廚の灯おのづから点き暮早し

                           富安風生

語は「暮早し」で冬。年の暮れのことを言うのではなく、冬時の日暮れの早さを言う。「短日」の傍題。句のミソはむろん「おのづから点(つ)き」にある。いかにも言い得て妙。「廚(くりや)の灯」が「おのづから」点くことなどないわけだが、まだこんな時間なのにもう灯が点いているという小さな驚きが、それこそ「おのづから」口をついて出てきた恰好だ。昔の食事の仕度にはかなりの時間を要したので、どの家でもたいがいは台所から点灯されたものである。それに、台所自体が昼でも薄暗い構造の家が多かった。めったに使わない客間などを明るく作ったのは、いったいどんな考えからなのだろうかと、いまどきの若い人なら訝しく思うに違いない。が、現代的なダイニング・キッチンの意識が定着してから、かれこれ三十年くらいだろうか。こうした俳句の味が実感的にわかる人は、まだたくさんおられるけれど、いずれは難解句になってしまいそうだ。あたりがある程度の暗さになると、本当に電気が「おのづから」点く装置(我が西洋長屋の廊下には、何年も前から取り付けられている)も、そのうちに普及してくるだろうし、そんなことを考えると掲句の寿命も目の前である。古い日本の抒情の池も、急速に干上がってきつつあるということだろう。(清水哲男)


December 02122004

 寒牡丹撮るとき男ひざまづく

                           折戸恭子

語は「寒牡丹(かんぼたん)」で冬。藁でかこって育て、厳冬にも花を咲かせる。花の写真撮影を趣味にする人は多い。近所の神代植物公園に行くと、薔薇の季節などはカメラの砲列状態だ。デジカメではなく、ほとんどが三脚を立て、フィルムを装填した高価そうなカメラで撮影している。が、寒牡丹のように背丈の低い花は、脚を立てるわけにはいかないので、句のように手持ちで撮らざるを得ない。このときに、どれだけ撮影に熱中しているかが、撮影者の姿勢にあらわれるのだ。ついでにこの花もちょっと押さえておこうくらいの軽い気持ちの人は、適当にかがんで撮る。だが、熱くなっている人はまさに「ひざまづく」のである。地面の冷えやズボンが汚れるなんぞは何のその、この姿勢のほうが手ぶれを最小限にとどめられるし、かがむよりもよほど被写体に肉薄できる。気がつけば、知らず知らずにそんな姿勢になっていたということだろう。作者にはその様子が、何か「男」が神々しいものに「ひざまづく」かのようにも重なって見えたというのである。むろんカメラの男にそんな気はないはずだけれど、人の熱中している姿には、たしかに敬虔な心映えといったものを感じさせられる。「ひざをつく」としなかった作者の目は、確かだ。ピュアであることは美しい。ピュアだけでは生きられない人間社会だからこそ、そうなのである。俳誌「街」(2004年12月号)所載。(清水哲男)




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