詩人・田代田さんのサイト「田田船」が面白い。この好奇心と饒舌ぶりには感服仕り候。




2004ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112004

 初雪も肉体もまだ日の匂い

                           柴崎昭雄

者は青森在住。青森地方気象台によれば、今年の初雪は10月27日だった。平年よりも、少し早めだろうか。ちらちらと、今年はじめての雪が舞いはじめた。空も風景も灰色に染まってはいるけれど、でも、どこかにまだ秋の名残りの明るさも感じられる。真冬のまったき鈍色の世界ではない。それを「日の匂い」と、臭覚的に捉えたところがユニークだ。雪にも日の匂いが感じられ、あまり雪らしくはなく、同時に人々の「肉体」にも、まだ雪に慣れない感覚が優先している。戦後の一時期に、俳句の世界で「身体」なる言葉が流行したことがあるけれど、あれは多分に精神性を含んだ肉体の意であった。が、掲句の場合には「カラダだけは大事にしろよ」などというときの「カラダ」の意に近いだろう。私の住む東京の人などと違って、雪国の人はみな、降雪現象に対する一種の諦念が自然に備わっているのだと思う。ジタバタしてもはじまらない、降るものは降るのだから……という具合にである。このときに、頼りになるのは「カラダ」だけなのだ。その「カラダ(肉体)」に「まだ日の匂い」を感じ取るというのは、そうはいっても「初雪」だけは別物だからに違いない。降るものは降ると覚悟を定める前の微妙な心の揺れが、この表現には滲んでいるようだ。いわば身体から肉体へと重心を移動させるときの、束の間の逡巡が巧みに詠まれていると感じた。『少年地図』(2004)所収。(清水哲男)


November 16112004

 露店の子落葉を掃いて帰りけり

                           久松久子

語は「落葉」で冬。最近は、とんと働く子供の姿を見かけなくなった。むろん、一般的にはそのほうが好ましい社会と言える。子供の頃に働いた経験のある人なら、誰もがそう思うだろう。この季節になると、井の頭公園の文化園前に車でやってくる焼き芋屋がいる。売り声は、小学校高学年くらいの女の子の声だ。いつ行っても「焼き芋〜、石焼き芋〜っ」とスピーカーから流れてくる。テープに仕込んであるわけだが、日曜などには声の当人とおぼしき少女がいることもある。けなげな顔つきだ。掲句の子も、おそらくそんな顔をしていたのではないだろうか。店を仕舞うときに、自分たちのために汚れたところをきちんと掃いて帰るのだ。落葉の季節には、それがまるで落葉掃きのように見えるので、作者はこう詠んだ。たとえメインの仕事は親がやっても、手伝う子供にも、ちゃんと後始末をさせる。これを常識では躾けと言うが、こうした躾けは働く現場がなくては身に付かない。といって、この句はべつに遠回しに教訓を垂れているのではなく、黙々と当然のように後始末をしている子のけなげな姿に、作者が特別ないとおしさを感じているということだ。それはまた、作者の小さかった頃の自分や友だちの誰かれの姿を思い出させてくれるからでもあるのだと思う。『青葦』(2004)所収。(清水哲男)


November 15112004

 虎河豚の毒の貫禄糶られけり

                           富永壽一

語は「河豚(ふぐ・ふく)」で冬。「糶(せ)られ」は「競られ」と同義で、市場でセリにかけられること。河豚のなかでも「虎河豚」は最も美味とされているが、高価だからなかなか庶民の口には入らない。私も、本場の下関で一度友人にご馳走になったきりだ。その最高級の河豚が競りにかけられている。テレビでしか見たことはないけれど、下関市場の競りは「袋競り」という独特なものだ。黒い腕カバーのような布の袋に競り人と業者が手を入れあって、何やらドスの利いたかけ声をかけながら、値段を決めてゆく。お互いの指先で値段のサインを送りあうのだという。掲句は、その値段の基準となるものを「毒の貫禄」に見ているところが面白い。いかにも毒性が高そうに見える奴ほど、高値がつくということだろう。何の「貫禄」でもそうだけれど、これは感覚的な言葉であって、実体が伴うわけではない。だからセリ人も業者も、長い経験のなかから、いわばカンで貫禄を嗅ぎ当てることになる。といっても実際にはもっと実体に添った客観的な基準があるのかもしれないが、作者には直感的にそう見えたということで、ちゃんとした句になった。なかなかに切れ味の良いセンスだ。俳人協会機関紙「俳句文学館」(第403号・2004年11月5日付)所載。(清水哲男)




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