いつの間にやら庭のサザンカが咲いていた。もう散っているのもチラホラ。冬ですね。




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November 13112004

 霜除のあたらしく人近づけず

                           田中裕明

語は「霜除(しもよけ)」で冬。霜除というと、いまの北国の都会の人は、車のウィンドウのそれと反応するかもしれない。朝、出かけようとして、すぐに動かしたくても霜で前がよく見えないことがあるからだ。でも、句の場合は野菜や花などの霜除だ。強い霜がおりると、根の浅い宿根草は霜で株がもち上がって枯れてしまう。これを防ぐにはいろいろな方法が開発されているようだが、いちばん良いのは、昔ながらの藁(わら)を使うやり方だろう。たいていが今年穫れた新藁をかぶせていくから、かなり目立つ。なるほど、句のようにちょっと近寄りがたい雰囲気になる。同様に道の泥濘化を避けるために、昔は藁を敷き詰めることもやつた。こちらは踏んで通るために敷かれたわけだが、あれには何となく踏みづらい感じがあったことを思い出す。汚してはいけないという意識がどうしても先に出てきて、躊躇してしまうのである。正月には「福藁」(季語)といって、門口などに新藁を敷く地方があるが、あれを踏むのと同じ感覚だ。「福藁や福来るまでに汚れけり」(中条角次郎)と、昔の人はやはり気にして詠んでいる。それはともかく、霜除の藁は春になるころには腐葉土になる。霜除には藁が良いという大きな理由の一つだ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


November 12112004

 近海へ入り来る鮫よ神無月

                           赤尾兜子

日から陰暦十月、すなわち「神無月」。この月には、諸国の神々が出雲に集い会議を開くのだという。したがって、出雲では逆に「神有月」となる。議題はいろいろとあるらしいが、重要なものには人の運命を定めるというものがある。なかでも、誰と誰を結婚させるかについては議論が白熱する由。ただしこれは俗説で、「な」を「の」の意味にとって「神の月」とするのが正しいなどの諸説がある。それはともかく、神が不在ととれば、さして信心深くない人にも漠然たる不安感が湧いてくることもあるだろう。何となく心細いような意識にとらわれるのだ。そんな不安感を、いわば神経症的に造形してみせたのが掲句である。神の留守をねらって、獰猛な鮫が音もなく侵入してきつつある。それももう、すぐそばの「近海」にまで入り込んできたようだ。むろん陸地から鮫の姿を認められるわけではないが、そうした目で寒々と展開する海原を眺めれば、不気味さには計り知れないものがある。そんなことは夢まぼろしさと笑い捨てる読者もいるだろうが、ひとたび句の世界に落ちた読者は、なかなかこのイメージから抜け出せないだろう。妙なことを言うようだが、風邪を引いたりして心身が弱っているときなどに読むと、この句の恐さが身に沁みてくるのは必定だ。作者もおそらくは、そんな環境にあったのではあるまいか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 11112004

 金借りにきて懐手解かぬとは

                           ねじめ正也

語は「懐手(ふところで)」で冬。和服の袂や胸元に手を入れていること。手の冷えを防ぐ意味もあるが、句の場合には腕組みの意味合いが濃いだろう。「金借りに」きたくせに、なにやら態度が尊大だ。人にものを頼むのであれば、せめて「懐手」くらい解いたらどうだと、作者は内心で怒っている。それが、相手は貸してくれて当たり前みたいな、のほほんとした顔をしている。失礼な奴だ。と、表面的には解釈できるし、それでよいのかもしれないが、もう少し突っ込んでみることもできそうだ。つまり、作者は金を借りる側の気苦労を思っている。たぶん相手は旧知の間柄だろうから、こちらに弱みを見せたくないのだ。素直に頭を下げるには、プライドが許さない。だから無理をして、すぐにでも簡単に返済できる感じをつくろうために懐手をしてみせている。「解かぬとは」、逆に辛いだろうな。というように相手の心中が手に取るようにわかるので、作者もまた辛いのである。借金とは妙なもので、返済できるメドがついている場合には、少々まとまった額でも気軽に申し込むことができる。反対にたとえ少額でも、アテがないと、なかなか借してくれとは言いにくい。こうした知己の間の金の貸し借りに伴う心理的負担を無くしたのが、街の金融機関だ。心理的な負担よりも、高利を選ぶ人が多いということである。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)




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