脱線した新幹線車両を吊り上げる巨大クレーン。ふだんは何に使われているのだろうか。




2004ソスN11ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 11112004

 金借りにきて懐手解かぬとは

                           ねじめ正也

語は「懐手(ふところで)」で冬。和服の袂や胸元に手を入れていること。手の冷えを防ぐ意味もあるが、句の場合には腕組みの意味合いが濃いだろう。「金借りに」きたくせに、なにやら態度が尊大だ。人にものを頼むのであれば、せめて「懐手」くらい解いたらどうだと、作者は内心で怒っている。それが、相手は貸してくれて当たり前みたいな、のほほんとした顔をしている。失礼な奴だ。と、表面的には解釈できるし、それでよいのかもしれないが、もう少し突っ込んでみることもできそうだ。つまり、作者は金を借りる側の気苦労を思っている。たぶん相手は旧知の間柄だろうから、こちらに弱みを見せたくないのだ。素直に頭を下げるには、プライドが許さない。だから無理をして、すぐにでも簡単に返済できる感じをつくろうために懐手をしてみせている。「解かぬとは」、逆に辛いだろうな。というように相手の心中が手に取るようにわかるので、作者もまた辛いのである。借金とは妙なもので、返済できるメドがついている場合には、少々まとまった額でも気軽に申し込むことができる。反対にたとえ少額でも、アテがないと、なかなか借してくれとは言いにくい。こうした知己の間の金の貸し借りに伴う心理的負担を無くしたのが、街の金融機関だ。心理的な負担よりも、高利を選ぶ人が多いということである。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


November 10112004

 花嫁の菓子の紅白露の世に

                           吉田汀史

語は「露の世」で秋。「露」に分類。この場合の「露」は物理的なそれではなく、一般的にははかなさの比喩として使われる。むなしい世。「花嫁の菓子の紅白」は、結婚式の引き出物のそれだろう。いかにもおめでたく、寿ぎの気持ちの籠った配色だ。それだけに、作者はかえって哀しみを感じている。結婚が、とどのつまりは人生ひとときの華やぎにしか過ぎないことを、体験的にも見聞的にも熟知しているからだ。といって、むろん花嫁をおとしめているのではない。心から祝いたい気持ちのなかに、どうしても自然に湧いてきてしまう哀しみをとどめがたいのである。たとえば萩原朔太郎のように、少年期からこうした感受性を持つ人もいるけれど、多くは年輪を重ねるにつれて、「露の世」の「露」が比喩を越えた実際のようにすら思われてくる。かく言う私にも、そんなところが出てきた。考えるに、だからこの句は、菓子の紅白をきっかけとして、思わずもみずからの来し方を茫々と振り返っていると読むべきだろう。同じ作者に「烏瓜提げ無造作の似合ふ人」がある。その人のおおらかな「無造作」ぶりを羨みながら、いつしか何事につけ無造作な気分ではいられなくなっている自分を見出して、哀しんでいるのだ。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)


November 09112004

 かく隙ける隙間風とはわらふべし

                           皆吉爽雨

語は「隙間風」で冬。戦後住宅空間の大変化の一つは、隙間風が入らなくなったことだ。もはや、ほとんどの住居は密閉され、外気と遮断されている。昔は十一月ともなれば、夜の隙間風が心細いばかりに身に沁みたものだ。戸や障子の細い隙間から、鋭くて冷たい風が吹き込んできた。子供の頃の我が家では、壁の隙間からも風が入ってきた。あれは細い隙間から入ってくるので「隙間風」なのだが、掲句の場合には「かく隙ける」というくらいに細くはないところから、吹き込んできている。よほど建て付けの悪い家なのだ。「わらふべし」に漢字を当てれば「嗤ふべし」で、自宅だったら自嘲になるし、他家であれば怒りになる。いずれにしても、呆れるほどの隙間に癇癪を起こしている作者を想像すると、なんとなく可笑しい。これも俳味というものだろう。建て付けが悪いといえば、独身時代に住んだアパートはかなりのものだった。北向きの大きな窓が、どうやってもきちんと閉まらない。いつも、上か下のほうが少し開いたままなので、まさに隙間風様歓迎風の恰好であり、あまり寒い日には部屋でコートも脱がなかったことがある。ちゃちな電気炬燵くらいでは、背中に来る風の冷たさは防ぎようもなかった。で、ある朝目覚めると枕元に白い帯状のものが見えるので、何だろうと思ったら、寝ている間に隙間から吹き込んだ雪がうっすらと積っていたのでした。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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