横浜の中村捕手が楽天第一号選手に。偶然かもしれないが捕手から決めるとは味な事を。




2004ソスN11ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 08112004

 柿博打あつけらかんと空の色

                           岩城久治

語は「柿博打(かきばくち)」で秋。忘れられた季語の一つ。私も、宇多喜代子が「俳句」に連載している「古季語と遊ぶ」ではじめて知った。要するに、柿の種の数の丁半(偶数か奇数か)で勝負を決めた賭博のことだ。種の数は割ってみなければわからないから、なるほど博打のツールにはなる。しかし、柿まで博打のタネにするとはよほど昔の人は博打好きだったのだろうか。とにもかくにも季語として認知されていたわけだから、多くの人が日常的にやっていたに違いない。たしかマーク・トゥエインだったと覚えているが、メキシコ人の博打好きをめぐって、こんなことを書いていた。彼らの博打好きは常規を逸していて、たとえば窓ガラスを流れ落ちてゆく雨粒でさえ対象にする。どちらの粒が早く落ちるかに賭けるのだ……。これを読んだときに思わず笑ってしまったけれど、どっこい灯台下暗しとはこのことで、我ら日本人も柿の種に賭けていたとはねえ。メキシコ人を笑えない。句の博打は、宇多さんが書いているように、退屈しのぎみたいなものなのだろう。勝っても負けても、ほとんど懐にはひびかない程度の賭けだ。だから「あつけらかん」。快晴の秋空の下、暇を持て余した人同士が、つまらなそうに柿を割っている様子が見えるようで、微笑を誘われる。「俳句」(2004年11月号)所載。(清水哲男)


November 07112004

 百姓に花瓶売りけり今朝の冬

                           与謝蕪村

語は「今朝の冬」で冬。「立冬」の日の朝のことだ。この句には、何らかのエピソードが背景にありそうな気もするのだが、よくわからない。蕪村は物語の発端を思わせる句を多く作っているから、その流れにあるとして解釈してみる。以前から近隣の「百姓」に欲しいとしつこく請われていた愛用の「花瓶」を、熱意にもほだされて、ついにある朝手放してしまった。「売りけり」とあるから売ったわけだが、そのときの蕪村は手元不如意でもあったのだろう。が、いくら生活のためとはいえ、およそその花瓶は無風流な百姓にはそぐわない品と思われ、どうせ手放すのなら、もっとふさわしい人があったろうにと悔やんでいる。花瓶のなくなった床の間は、やけに寒々しい。そういえば、今日は「立冬」である。これから、長くて暗い季節がやってくるのだ。うつろな心でぽっかりと空いた空間を見つめる作者の姿には、既に暗くて寒々しい冬の気配が忍び寄っている。あまり自信はないけれど、大体こんなところでどうだろうか。自然界の動きに立冬を感じるのではなく、花瓶を売るという人為的なそれに感じているところが、面白いといえば面白いし、少なくとも斬新な思いつきだ。ちなみに掲句は、編者が蕪村の佳句のみを選んだという岩波書店版「日本古典文學大系」には載っていない。(清水哲男)


November 06112004

 無人駅牛乳瓶に草の花

                           本宮哲郎

語は「草の花」で秋。名も知れぬ野草の花々。ちなみに「木の花」と言えば、春季ということになっている。ローカル線沿線の無人駅。人気(ひとけ)もなくひっそりとしたホームの片隅に、でもあろうか。「草の花」を挿した「牛乳瓶」がぽつねんと立っている。誰が置いたのだろう。ほんの茶目っ気からだったのかもしれないが、こんな辺鄙な土地まで訪ねてきた旅行者の粋な心持ちが伝わってくる。牛乳瓶のあたりだけが、ぼおっと明るんでいるようだ。格別に新味はない句にも見えるけれど、この句自体が無人駅のように人(作者)の気配をどこか感じさせない詠みぶりがあって、そこに惹かれた。これまでに私がいちばん印象深かった無人駅は、昔の山口線の長門峡あたり(だったと思う)にあったそれで、この駅はほとんど農家の庭先にあるような感じだった。汽車の窓から見たかぎりでは、土を盛って作られたホームを降りていくと、鶏などが遊んでいる庭を通って、それから道路に出て行く順路に思われた。つまり、この家では自宅の庭先に汽車が停まるわけだ。汽車が発するであろう騒音などのことよりも、そちらのほうに気を奪われて、ただただ羨ましいなと思ったことだった。子供時代に夢中になった電車ごっこの魅力の源泉が、そのままの現実としてそこにあったからである。「俳句研究」(2004年11月号)所載。(清水哲男)




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