看板「ドア・シリーズ」は今日で終了。藤倉さん、長丁場をありがとうございました。




2004ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102004

 紅葉見のよりどりの赤 絶交

                           志賀 康

近「絶交」という言葉を聞かなくなった。それほどみんなが仲良くなったというのではなくて、そもそも絶交宣言するような深い交わりの相手がいなくなったからではなかろうか。ほどほどの付き合いには、絶交などあり得ない。また、男女の別れに絶交とは言わないようだから、相手はすべて同性だ。よほどのことがないかぎり、同性の友人と決別する気持ちにはなりそうもないから、絶交のほうが男女の別れよりも大事(おおごと)かもしれない。さて、どういう謂れからかは知らないけれど、昔から絶交状は「赤」で記すことになっている。掲句は、そのことに引っ掛けてある。それにしても「紅葉」を見ながら「絶交」を思うとは、意表を突かれた。実感句ではなく、言葉の面白さをねらった作だと思うが、なかなかの飛躍ぶりである。たしかに「よりどりの赤」であり、どの色で奴に絶交状を書いてやろうかしらんと、どこか舌なめずりをしているような感じもあって、第三者にはユーモラスに写る。つまり絶交状にもスタイルがあるし、そこには相手に馬鹿にされないよう、恋文とはまた違った意味での細心の注意を必要とするわけである。幸いにして書いたことはないけれど、いざとなるとこりゃ難しそうだ。『山中季』(2004)所収。(清水哲男)


October 30102004

 三日月ほどの酔いが情けの始めなり

                           原子公平

語は「(三日)月」で秋。長い酒歴のある人でないと、こういう句は詠めまい。『酔歌』という句集があるほどで、作者は無類の酒好きだった。「三日月ほどの酔い」とは、飲みはじめのころの心的状態を言っている。ほろ酔い気分の一歩手前くらいの心地で、酔っているとは言えないけれど、さりとて全くのシラフとも言えない微妙な段階だ。おおかたの酒飲みは、この段階でぼつぼつ周囲の雑音が消えてゆくことが自覚され、自分の世界への入り口にあるという気持ちが出てくる。すなわち、シラフのときには自制していたか抑圧されていて表には出さなかった(出せなかった)「情け」が動き「始め」るというわけだ。「情け」といっても、いろいろある。「情にほだされ」て涙もろくなることもあるし、逆に「情が高ぶって」怒りやいじめに向かうこともある。加えて、曰く言いがたい酒癖というものもある。だが、いずれにしても、「知」よりは「情」が頭をそろそろともたげてくるのがこの段階なのであって、飲み始めた当人にその情がどこに向かうのかがわかりかけるのも、この段階だ。作者は今宵もひとりで飲みながら、長年にわたる飲酒を通じて生起した様々な心的外的な出来事を振り返って、すべての「始め」はこのあたりにあったのだなと合点している。「情けは人のためならず」と言うが、酒飲みの情はその日その日の出来心によるから、人に情けをかけたとしても、必ずしも自分のためになるとは言いがたい。酒好きには、しいんと身につまされる一句だろう。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)


October 29102004

 萱負うて束ね髪濃き山処女

                           星野麥丘人

語は「萱(かや)」で秋。ただし、萱という植物名はない。ススキやチガヤなどの総称で、ススキを指す場合がほとんどである。昔は茅葺きの屋根に使われたものだけれど、今ではさしたる実用性はなさそうだ。作者は田舎道で、背負子に萱の束を背負った土地の若い女性とすれちがった。「処女」は「おとめ」と読む。ずいぶんと重そうではあるが、しっかりとした足取りだ。少し前屈みになった女性の「束ね髪」は黒々として艶があり、「若さだなア」と作者は素直に感嘆している。と同時に、彼の胸にはふっとよぎるものもあったと思う。この地で生まれ育ち、生涯をこの地でつつましく生きていくであろう女性の宿命のようなものである。萱には、どこかそうした淋しさを想起させるところがある。萱それ自体というよりも、ものみな枯れてゆく山国の光景が、そうさせるからだろう。古歌に曰く。「七日刈る萱は我が身の上なれや人に思ひを告げでやみぬる」(『古今六帖』)。私の子供の頃にも、よく萱を刈った。学校に持っていくとナニガシかになった記憶があるが、あれはいったい何の役に立っていたのだろうか。萱の葉では、とにかくよく指を切ったっけ。痛いのなんのって……。そんな思い出と、あとは束ねた萱の良い匂いくらいしか覚えていない。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)




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