もう年賀状予約受け付け中の知らせが。来年は何年だったかしらんと眺めたら酉だった。




2004ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21102004

 食べるでも飾るでもなく通草の実

                           岩淵喜代子

語は「通草(あけび)」で秋。いただき物だろう。むろん食べて食べられないことはないのだけれど、積極的に食べたいとも思わない。かといって飾っておくには色合いもくすんでいて地味だし、たとえばレモンのようにテープルを明るくしてくれるわけでもないので、困ってしまった。でも、せっかくいただいたものでもあり、先方の好意を無にするようなことはできない。さて、どうしたものか……。作者はさっきから、じいっと通草をにらんでいるのである。ふふっと思わず笑ってしまったが、こういうことは誰にでも経験があるだろう。昔の話になるが、小学生が修学旅行の土産に小さな筆立てをくれたことがある。私には小さすぎて使い物にならなかったのは仕方がないとして、筆立てに大書されていた言葉がいけない。「根性」だったか「努力」だったか。とにかくそんな文字がくっきりと焼き付けられていて、しばし机上に飾るというのもはばかられた。どうしようかと私もしばらくにらんでから、やむを得ず戸棚に保管することにしたのだった。が、句の通草の場合は、まさか戸棚にはしまえない。いったい作者はどうしたのだろうか。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)


October 20102004

 台風の目の中しまりのない蛇口

                           大塚千光史

年は「台風」の当たり年だ。うんざりするを通り越して、げんなり、がっくりだ。とくに沖縄や九州など西日本の方々は、そうだろう。知人が宮古島にいて、台風なんか慣れてるさと豪語していたけれど、さすがに今年はげんなり、がっくりと来ているのではなかろうか。地球温暖化と関係ありとする説もあるようだが、そろそろ我らが星にもガタが出てきたのは確かなようだ。中南米も猛烈なハリケーンに襲われたし、こればっかりはブッシュでも小泉でもどうにもならない。掲句を読んで、一度だけ「台風の目の中」に入った経験を思い出した。半分だけの台風一過というわけだが、空はあくまでも青く高く、先刻までの激しい風雨が嘘のようにぴたりと止んだ。世界は、不気味なほどにしいんとしていた。ところが、作者には聞こえたのである。厨房か、風呂場か。とにかくぴちょっぴちゅっと「しまりのない蛇口」から水滴が滴っているのが……。なんという無神経、なんという呑気さ加減。人間が風雨に緊張して構えている間も、奴は知らん顔でだらしなく、ぴちょっぴちゅっと水を垂らしていたのだろう。蛇口に当ってみても仕方がないようなものだが、なんだか無性に腹立たしい。そんな可笑しさが、無理なく伝わってくる。この人の俳句は、総じてセンスがよい。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


October 19102004

 へちま水作る気なりと触れ回る

                           立松けい

語は「へちま(糸瓜)」で秋。昔の我が家にもぶらんぶらんとなっていたが、母が「へちま水」(化粧水)を作っていたかどうかは知らない。ただ名称は知っていたので、自宅で作っている人は多かったのだろう。ネットで調べてみると、作り方はかなり面倒くさそうだ。「へちまの実をとったあと、地上から50〜60cm位のところで茎をカットして一升瓶、もしくはペットボトルの口に茎の先端を差し込み,異物が入らないようにラップ等で固定します、茎の根本に水分を十分補給して1日後くらいに回収します」……。ここまではだいたい想像がつくけれど、回収した後で今度はフィルターで濾過し、雑菌処理のために煮沸しなければならない。となると、相当に時間のかかる作業だ。加えて、腐りやすいので防腐剤をどうするかなどの問題もあるようで、普通なら「買ったほうが安い」と思うのではなかろうか。そんなへちま水を、作者は自力で作ろうと思い立った。でも、途中で挫折するかもしれない。しかし、ちゃんと作ってみたい。ならばと一計を案じたのが掲句で、友人知己に「作る気なりと触れ回る」ことによって、後に引けない状況に自分を追い込んだというわけだ。句としての出来映えよりも、そうした手の内をさらしたところが面白く、作者の人となりにも好感を持った。俳句でないと、こういうことをさらりと言うのは、案外と難しいものである。『帆船』(1998)所収。(清水哲男)




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