明日開かれる福井県大野市の小学生の詩の集いに行ってきます。台風は大丈夫かいな…。




2004ソスN10ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 20102004

 台風の目の中しまりのない蛇口

                           大塚千光史

年は「台風」の当たり年だ。うんざりするを通り越して、げんなり、がっくりだ。とくに沖縄や九州など西日本の方々は、そうだろう。知人が宮古島にいて、台風なんか慣れてるさと豪語していたけれど、さすがに今年はげんなり、がっくりと来ているのではなかろうか。地球温暖化と関係ありとする説もあるようだが、そろそろ我らが星にもガタが出てきたのは確かなようだ。中南米も猛烈なハリケーンに襲われたし、こればっかりはブッシュでも小泉でもどうにもならない。掲句を読んで、一度だけ「台風の目の中」に入った経験を思い出した。半分だけの台風一過というわけだが、空はあくまでも青く高く、先刻までの激しい風雨が嘘のようにぴたりと止んだ。世界は、不気味なほどにしいんとしていた。ところが、作者には聞こえたのである。厨房か、風呂場か。とにかくぴちょっぴちゅっと「しまりのない蛇口」から水滴が滴っているのが……。なんという無神経、なんという呑気さ加減。人間が風雨に緊張して構えている間も、奴は知らん顔でだらしなく、ぴちょっぴちゅっと水を垂らしていたのだろう。蛇口に当ってみても仕方がないようなものだが、なんだか無性に腹立たしい。そんな可笑しさが、無理なく伝わってくる。この人の俳句は、総じてセンスがよい。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


October 19102004

 へちま水作る気なりと触れ回る

                           立松けい

語は「へちま(糸瓜)」で秋。昔の我が家にもぶらんぶらんとなっていたが、母が「へちま水」(化粧水)を作っていたかどうかは知らない。ただ名称は知っていたので、自宅で作っている人は多かったのだろう。ネットで調べてみると、作り方はかなり面倒くさそうだ。「へちまの実をとったあと、地上から50〜60cm位のところで茎をカットして一升瓶、もしくはペットボトルの口に茎の先端を差し込み,異物が入らないようにラップ等で固定します、茎の根本に水分を十分補給して1日後くらいに回収します」……。ここまではだいたい想像がつくけれど、回収した後で今度はフィルターで濾過し、雑菌処理のために煮沸しなければならない。となると、相当に時間のかかる作業だ。加えて、腐りやすいので防腐剤をどうするかなどの問題もあるようで、普通なら「買ったほうが安い」と思うのではなかろうか。そんなへちま水を、作者は自力で作ろうと思い立った。でも、途中で挫折するかもしれない。しかし、ちゃんと作ってみたい。ならばと一計を案じたのが掲句で、友人知己に「作る気なりと触れ回る」ことによって、後に引けない状況に自分を追い込んだというわけだ。句としての出来映えよりも、そうした手の内をさらしたところが面白く、作者の人となりにも好感を持った。俳句でないと、こういうことをさらりと言うのは、案外と難しいものである。『帆船』(1998)所収。(清水哲男)


October 18102004

 コスモスと少年ほかは忘れたり

                           藤村真理

語は「コスモス」で秋。いつ頃のことだったのか。その場所がどこであったのか。その少年は誰だったのか。さらに言うならば、あれは現実の情景だったのか、それとも夢だったのだろうか。ともかくコスモスの咲き乱れるなかに、一人の少年がぽつねんとたたずんでいた。それがこの季節になると、今も鮮やかな印象として蘇ってくる。しかし、その他のことは何も思い出せない。別にもどかしいというのではなく、むしろそのほうがすっきりとした気分だ。「忘れたり」の断言が、作者のそんな気分を物語っている。心理学的には説明がつく現象かもしれないのだが、こうした種類の記憶は誰にでもありそうだ。少なくとも私には、ある。このところ自分の過去を、言葉ではなく、なるべくビジュアルに表現することはできないものかと考えてみている。ほんのお遊びみたいなものだが、その過程で、あらためて記憶というもののキーになっているのは、ほとんどが映像だということに気がついた。言葉は、映像の周辺でうろうろしているに過ぎない。だから余計に掲句に反応したところもあると思うけれど、人間の得る情報の70パーセントは視覚からによるという説もある。いささか目が不自由になってきて、パーセンテージはともかく、見えること、見ることの大切さが骨身にしみてわかってきた。『からり』(2004)所収。(清水哲男)




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