東京では日曜日から昨夜まで本降り状態。雨男もげんなり。今日はいきなり晴れてホッ。




2004ソスN10ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 06102004

 青電に間に合ふ星の別れかな

                           伊丹竹野子

語は何だろうか。字面だけからすると、無季句である。が、句意に添って情景を想像すれば、「星の別れ」とは「星空の下の別れ」であり、星空が最もきれいな季節である秋の「星月夜の別れ」と読めなくもない。よって、当歳時記では異論は承知で「星月夜」に分類しておく。ところで私がこの句に目を止めたのは、もはや死語ではないかと思われる「青電」が使われていることにもよる。車体の青い電車のことじゃない。昔の市電などで、行先を示す標識を青色の光で照明したところからそう呼ばれたもので、最終電車である赤電(車)の一つ前の電車を言った。もう、若い人にはわからない言葉だろう。帰宅を急いで運良く最終電車の前の電車に乗れると、何となくほっとする。赤電は切なく侘しいが、青電にはそれがない。後続の赤電との時間差がたいして無いのだとしても、とにかく青電に乗ると、得をしたような気分になるものだ。まだそんなに遅い時間じゃない、もっと遅く赤電で帰る人もいるのだから……。と、とくに句のように別れがたい人と別れてきた後では、不意に散文的な現実に呼び戻されて、自己納得するというわけだ。「星」の幻想と「青電」の現実。私たちは両者の間を、行ったり来たりしながら暮らしている。俳誌「ににん」(16号・2004年9月30日刊)所載。(清水哲男)

[訂正します]数人の読者から「星の別れ」は季語「星合(七夕)」の項目にあるとのご指摘をいただきました。ありがとうございます。後出しジャンケンみたいですが、実はそれも考えました。でも、「電車」ゆえ「実際の人の別れ」ととったほうが面白いと思って書いたわけです。しかし歳時記にある以上、私の解釈は強引すぎたかと反省しています。よって、「間違った」解釈はそのままに、掲句を「七夕」の項に移動させることにしました。


October 05102004

 秋草の思ひ思ひに淋しいぞ

                           島村 元

日、若い友人で文芸評論家の小笠原賢二君が亡くなった。以下、「東京新聞」の電子版より。「小笠原賢二氏(おがさわら・けんじ=文芸評論家)4日午前8時40分、肺がんのため東京都立川市の病院で死去、58歳。北海道出身。自宅は東京都日野市南平1の23の8。葬儀・告別式は6日午後2時から東京都台東区下谷2の10の6、法昌寺で。喪主は妻かず子(かずこ)さん。/短歌を中心として現代社会と文学の問題を論じた。著書に「終焉(えん)からの問い」「拡張される視野」など」。かつては「週刊読書人」の優れた編集者であり、私たちの野球チーム「ポエムズ」の仲間でもあった。野球をやめてからは一度も会う機会がなかったが、常にひたむきな表情の似合う男であった。念願かなって某大学で講座を持つ矢先の入院だったと聞いていたし、これから書きたいこともたくさんあったろうにと思うと、早すぎた死ゆえに胸が痛む。まこと掲句のように、私は私なりに「淋しいぞ」とつぶやくことになった秋である。生きていてくれさえすれば、たとえ会わなくたって淋しくはないのだ。寿命と言えばそれまでながら、とにかく年下の人に死なれるのは辛い。これまで、もう何人の若い友人知己と別れてきただろう。いやだなあ……。暮れかけた庭の「秋草」を、冷たい雨が濡らしているのが見えている。合掌。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 04102004

 銀木犀文士貧しく坂に栖み

                           水沼三郎

語は「(銀)木犀」で秋。木犀は、ある日突然のように香りはじめる。我が家の近辺でも、一昨日から芳香を放ちはじめた。何故か、そぞろ郷愁を誘われる香りだ。秋、それでなくとも感傷的になりがちな季節に咲くからだろうか。暗くなるとよく匂うので、夕暮れから夜にかけてのイメージと結びつく人が多いと思う。句の「文士」が誰を指すのかは知らないが、私は文芸誌の編集者だったこともあったので、しみじみと心に沁み入ってくる。いまどき「文士」は死語に近いが、四十年ほど前には文士としか言いようのない作家や詩人がたくさんおられた。一種の豪邸に暮らしていた何人かの人には、当時としても文士と呼ぶのははばかられたが、他方で吉田一穂や木山捷平などはその呼称にふさわしかった。「貧しく」かどうかは別にして、小さな一軒家を構え、どこか世俗に超然と構えたところがあり、それでいて私のような若造にもていねいにつきあってくださった。お宅を辞するときは、たいていが宵の口だ。どこからか木犀の香りが漂ってきて、仕事の話が順調ではなかったにしても、いま辞してきたばかりのお宅でのあれこれが、既に懐かしいような感じにすらなるのであった。そう、文士とは恐らく存在それ自体が懐かしいような人のことを言ったのではあるまいか。句は直接そういうことを言っているのではないけれど、そこに通じる繊細なセンスが感じられて好もしい。「住み」ではなく「栖み」が効いている。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)




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