パソコンのお勉強。関連事項が枝葉のごとく増えてきて、収拾がつかなくなってきた。




2004ソスN10ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 04102004

 銀木犀文士貧しく坂に栖み

                           水沼三郎

語は「(銀)木犀」で秋。木犀は、ある日突然のように香りはじめる。我が家の近辺でも、一昨日から芳香を放ちはじめた。何故か、そぞろ郷愁を誘われる香りだ。秋、それでなくとも感傷的になりがちな季節に咲くからだろうか。暗くなるとよく匂うので、夕暮れから夜にかけてのイメージと結びつく人が多いと思う。句の「文士」が誰を指すのかは知らないが、私は文芸誌の編集者だったこともあったので、しみじみと心に沁み入ってくる。いまどき「文士」は死語に近いが、四十年ほど前には文士としか言いようのない作家や詩人がたくさんおられた。一種の豪邸に暮らしていた何人かの人には、当時としても文士と呼ぶのははばかられたが、他方で吉田一穂や木山捷平などはその呼称にふさわしかった。「貧しく」かどうかは別にして、小さな一軒家を構え、どこか世俗に超然と構えたところがあり、それでいて私のような若造にもていねいにつきあってくださった。お宅を辞するときは、たいていが宵の口だ。どこからか木犀の香りが漂ってきて、仕事の話が順調ではなかったにしても、いま辞してきたばかりのお宅でのあれこれが、既に懐かしいような感じにすらなるのであった。そう、文士とは恐らく存在それ自体が懐かしいような人のことを言ったのではあるまいか。句は直接そういうことを言っているのではないけれど、そこに通じる繊細なセンスが感じられて好もしい。「住み」ではなく「栖み」が効いている。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


October 03102004

 ぬす人に取りのこされし窓の月

                           良 寛

寛といえば、なんといっても歌と詩と書だ。俳句(発句)は入らない。良寛作と伝えられる句はたかだか百句程度だが、そのなかにもオリジナルかどうか疑わしいものがかなりあるという。図書館で見つけた新潟市の考古堂から出ている『良寛の俳句』(写真と文・小林新一)を開いたら、良寛の父親は名の知れた俳人(俳号・以南)であったが、良寛にとって俳句は遊びだったと村山砂田男が書いていた。「芭蕉を俳聖とするならば、一茶は俳人というべきであり、良寛は他の芸術同様、枷(かせ)のない無為の境地において俳句を楽しんだ俳遊である」。さて、その「無為な境地」の人の家に泥棒が入った。前書に「五合庵へ賊の入りたるあとにて」とあるから、入られたのは良寛が五十代を過ごした草庵だ。昨年の初夏に八木忠栄の案内で大正初期に再建された五合庵を見に行ったけれど、そのたたずまいからして、またそのロケーションからして、およそプロの泥棒がねらうような庵ではない。落語なら「へえ、泥棒に入られたのか。で、何か置いていったか」てな住居なのだ。村山さんは蒲団を持っていかれたと書いているが、何か根拠があるのだろうか。が、何にせよ奪われた側の良寛は、さすがの泥棒も「窓の月」だけは盗みそこねたなと、呑気というのか闊達というのか、とにかく恬淡としている。ここらへんが、良寛と我ら凡俗の徒の絶対の差であろう。句の味としては一茶に似ている感じがするが、一茶と良寛とは全くの同時代人だった。それにしても、泥棒に入られて即一句詠むなんぞは、やはり「俳遊」と呼ぶしかなさそうである。(清水哲男)


October 02102004

 生きて会ひぬ彼のリュックも甘藷の形り

                           原田種茅

語は「甘藷」で秋。「さつまいも」のことだが、句では「いも」と読ませている。戦後も間もなくの混乱期の句だ。消息のわからなかった同士が、偶然に出会った。食料難の時代、作者は食べ物を求めて農村に買いだしに出かけた帰途とうかがえる。背負ったリュックには、やっとの思いで手に入れた甘藷が詰まっているのだ。したがって会った場所は、電車の中か、それとも駅頭あたりだろうか。お互いに相手を認めての第一声は、「久しぶりだなあ」というよりも「おお、生きてたか」というのが、当時の自然な挨拶だろう。よかったと手を取りあわんばかりの邂逅にも、しかし、ちらりと相手のリュックに目が行ってしまうのは、これまた当時の自然の成り行きというものだ。どうやら彼のほうも甘藷を手に入れたらしいことが、リュックの「形り」(「なり」と読むのかしらん)でわかったというのである。これで彼のおおよその暮らし向きもうかがえ、どうやら似たようなものかと思う気持ちは、平和な時代には絶対にわいてこなかったものである。その哀れさと苦さとが、会えた喜びの陰に明滅していて、何とも切ない。この後、二人の会話はおそらく弾まなかったろう。そそくさと連絡先を伝えあうくらいで、それぞれが家族の待つ我が家へと急がねばならなかったからだ。この世代も、若くて七十代後半を迎えている。甘藷もそうだが、ただ飢えをしのぐためにだけ食べた南瓜など、見るのもイヤだという人もいる。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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