南瓜が美味しく感じられるようになった。南瓜ばかりで顔まで黄色くなった世代だけど。




2004ソスN9ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2192004

 秋風やたためば小さき鯨幕

                           松崎麻美

夜か葬儀の後片付けだろう。「鯨幕(くじらまく)」は、黒と白の布を一幅おきに縦に縫い合わせ、上下に黒布を横に渡した幔幕(まんまく)のことだ。広げて吊るしてあるときには大きく見えるけれど、「たためば」意外にもずいぶん小さかったという実感句である。書いてあるのはそれだけだが、ここにはむろん人の生命のはかなさへの感懐が込められている。故人の死を悼み悲しむというよりも、あっけらかんと掻き消えてしまった生命の意外な小ささに胸を突かれたのだ。したがって吹く秋風が感傷を誘うというよりも、むしろ空虚空爆の世界へと作者を連れて行ったのではあるまいか。「鯨幕」で思い出したが、子供の頃には「鯨」のつく道具や品物がいろいろとあった。和裁で使う「鯨尺(くじらじゃく)」などはたいていの家庭にあったし、昼夜帯を意味した「鯨帯(くじらおび)」とか、「鯨身(くじらみ)」は芝居で使う刀のことを言った。本物の鯨の肉は戦後の食糧危機をある程度は救ってくれたし、それほどに鯨と日本人の関係が密だった証拠だろう。それが昨今では周知のように鯨が遠い存在になり、連れて鯨のついた物の名前も忘れられつつある。誰でも見知っている句の「鯨幕」にしても、ちゃんと名前を知っている人は、もうそんなに多くないのではなかろうか。『射手座』(2004)所収。(清水哲男)


September 2092004

 われらただのぢぢばばながら敬老日

                           新津香芽代

、そういうこってすな。先日居住している三鷹市の健康福祉部高齢者支援室なるところから、高齢者生活実態調査なるアンケート用紙が郵送されてきた。65歳以上の市民のなかから、無作為に選んだ一万人を対象にしたという。封筒を開けたら色違いの二通の調査票が入っていて、一通は本人が答えるもの、もう一通は家族が答えるものだった。これにはちょっとショックだったが、なるほど高齢者の場合には本人だけの回答では「実態」が客観的に把握できない可能性も高いのだろう。やむを得ないことながら、「ただのぢぢばば」というだけで、人はかくのごとくに世間から不信の目を向けられているのである。つくづく「トシはとりたくねえな」と思った。ちなみに、本人向けにはこんな質問が……。(1)金銭管理は一人でできますか。(2)買い物は一人でできますか。(3)内服薬の管理は一人でできますか。(4)食事の用意は一人でできますか。(5)掃除や洗濯は一人でできますか。さらには「あなたは、趣味のグループ、町内会、自治会、住民協議会、老人クラブ、またはその他のあつまりに何回くらい参加していますか」等々、質問の背後から自治体の考える理想的な老人像がほの見えてきて、答えているうちにだんだん憂鬱になってしまった。結局、アンケートには応じなかった。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


September 1992004

 鳥渡る旅にゐて猶旅を恋ふ

                           能村登四郎

語は「鳥渡る」で秋。登四郎最晩年八十九歳の句、死の前年の作句である。若い身空で旅にあっても、ときにこういう感興を覚えることがあるが、老いてからのそれは一入だろう。澄んだ秋空を渡ってくる鳥たちを見上げていると、その元気さ、その自由さに羨望の念を覚え、旅先であるのに猶(なお)さらなる遠くへの旅を「恋ふ」気持ちがこみ上げてくるのだ。もはや渡り鳥のようには元気でもなく自由もきかない我が身にとっては、今度のこの旅が最後になるかもしれない。そうした懸念とおそれがあるので、なおさらに鳥たちの勇躍たる飛翔が目にまぶしく感じられる。同じころの句に「啄木鳥や木に嘴あてて何もせず」があり、こちらは何もしないでいる「啄木鳥(きつつき)」に老いた我が身を重ねあわせたものだ。あのいつも陽気で騒がしい鳥にも、じっと黙して動かない時間がある……。一見ユーモラスではあるけれど、何か名状しがたい苦さがじわりと読み手に沁み入ってくる。高齢者の句には総じて淡白なものが多いように思うが、見られるように登四郎の句にはなお作品的な色気がある。人によりけりなのではあろうけれど、妙な言い方をしておけば、登四郎には最後まで読者を意識したサービス精神があったということだ。その道のプロは、かくありたいものだ。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)




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