有罪を受け入れる代わりに刑の軽減を図る司法取引という考え方がイマイチわからない。




2004ソスN9ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1292004

 地芝居のお軽に用や楽屋口

                           富安風生

語は「地芝居」で秋。「地」は「地ビール」の「地」。土地の芝居という意味で、土地の人々による素人芝居だ。「お軽」は言わずと知れた『仮名手本忠臣蔵』の有名な登場人物である。舞台では沈痛な顔をしていたお軽が、用事を告げにきた人と「おお、なんだなんだ」と気軽に応対しているところが、いかにも村芝居ならではの光景だ。これが「一力茶屋の場」の後だったりしたら、派手な衣装がますます芝居と現実との落差を感じさせて面白い。この稿を書いているいま、遠くから祭り太鼓の音が聞こえてくる。昨日今日と、三鷹や武蔵野など近隣八幡宮の秋祭なのだ。ひところは担ぎ手を集めるのに難渋した神輿人気も復活し、大勢の人出でにぎわうのだけれど、私などにはやはり「地芝居」の衰退は淋しいかぎり。子供の頃の秋祭最大の楽しみといえば、顔見知りの人たちが演ずる芝居であった。でも、難しい忠臣蔵なんて舞台はなかったと思う。たいていが国定忠次とか番場の忠太郎とかのいわゆるヤクザもので、まあ長谷川伸路線だったわけだが、その立ち回りは早速翌日にはチャンバラごっこに取り入れたものである。「ハナ(寄付金)の御礼申し上げまーす」。幕間には必ずこのアナウンスがあって、寄付した人たちの名前が読み上げられた。多くは地域共同体の義理で寄付していたようだが、しかし私の父親の名前は一度も読み上げられることはなかった。生活保護家庭で口惜しい思いをしたことはいろいろあるけれど、これもその一つである。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1192004

 海苔巻を添へし見舞の山の柿

                           児仁井しどみ

句集より。作者は三年前に癌で亡くなっている。季語は「柿」で秋。「海苔巻『に』」ではなく「海苔巻『を』」であることに注目した。つまり、見舞の品のメインは「山の柿」であって「海苔巻」ではないのである。長期病床にある作者に、贈り手は新鮮な外気の感じられる山の幸を届けてきた。たぶん、枝葉のついたままの柿だろう。食べてもらうためというよりは、見て楽しんでもらうためだ。しかしこれからが嬉しいところで、贈り手は何の手もかけていない柿だけではぶっきらぼうに過ぎると考え、せめてもと手作りの海苔巻をいくらか添えたのだった。このときに柿は贈り手の病者に対するいたわりの表現であり、海苔巻は「これでも食べて元気を出せ」という励ましの表現とも言える。作者にはその暖かい心遣いがよくわかったので、「に」ではなく「を」と、嬉しくも素直に表現したのである。またぞろ昔話で恐縮だが、昔の見舞の品や贈答品には、しばしばこうした配慮がなされていたことを思い出す。単なる貰い物のお裾分けにしても、何か自分が手をかけたものを添えたりしたものだ。添えるものが何もないときには、口上などの言葉を添えた。なかには釣れすぎた魚を黙って突き出すように置いていく人もいたけれど、あれはあれで、その照れたような表情が立派な口上になっていたのだと思う。このぎすぎすした世の中に、まだそんな奥床しさが残っていたとは。句を読んで、しんみりと嬉しくなってしまった。『十一番川』(2004・私家版)所収。(清水哲男)


September 1092004

 月白をただぼんやりと家族かな

                           伊藤淳子

語は「月白(つきしろ)」で秋。月の出に、空がほんのりと白く明るんでくること。「月」に分類。今宵も東の空が白みはじめて、そろそろ月の上ってくるころになった。でも、「家族」は「ただぼんやりと」しているだけだ。とくに風流心を起こすわけでもないし、第一「月白」の空に気づいているのかどうかすらもわからない。漫然と、いつもと変わらぬ家族の時間が流れているのみである。つまり、日常的にこういう「ぼんやりと」した時間を共有しているのが家族というものだ。作者は、そう言っているのだろう。家族間に大事でもない限り、家族として過ごす時間はさして意識されることがない。月の出程度の現象に、いちいち鋭敏に反応したりなどはしないのである。最も心安い間柄とは、最も鈍い感覚や感情に安んじることが許されるそれではないだろうか。私の高校時代に、田中絹代が唯一度監督した『月は上りぬ』という映画があった。奈良で暮らす老夫婦と娘二人の平凡な家族の物語だ。うろ覚えだが、たしかラストシーンは、老夫婦が縁側でしみじみと古都に上ってくる月を見上げる場面だったと思う。この場合に家族はぼんやりとしていないわけだが、それは姉娘の結婚話がやっとうまくいったという「大事」があったからである。何事も無ければ、この家族もまた句のように「ただぼんやりと」していただけだろう。そんなことを、ふっと思わされた。『夏白波』(2003)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます