プーチンもブッシュも荒っぽい武力制圧がいっそう反勢力を強化することに気づかない。




2004ソスN9ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0592004

 銀シャリてふ眩しき死語や今年米

                           岡田飛鳥子

語は「今年米」で秋。新米のこと。「死語」と言われれば、なるほど「銀シャリ」という言葉が聞かれなくなって久しい。「シャリ」は今でも鮨屋が使うが、一般的には特別に「銀」を冠する理由がもはや無くなってしまったからだ。しかし作者は、新米の季節になる度にこの言葉を眩しく思い出し、同時に隔世の感に茫となるのである。それほどに、何も混ぜていない米だけで炊き上げたご飯への渇望は、とりわけて戦中戦後に強かった。このことについての私の体験は何度も書いたので、今回は弦書房(九州)のサイトにある原弘「昭和の子」というコラムから、該当部分の一部を引用しておく。「玄関横の六畳間に新婚の映写技師夫婦が間借りすることになった。映画は戦後の最大の娯楽だった。どこの映画館も、どんな作品がかかっても超満員のようで、当時の映写技師は格段に羽振りがよかった。『支配人や館主よりも映写技師が威張っている』と言われる時代だった。/日暮れ時、表で遊んでいると、その映写技師の六畳間から銀シャリの炊ける何とも言えない香ばしいかおりが流れてきた。空腹と銀シャリへの憧れを抱いていた僕は、その香りに吸い寄せられるようにたまらず勝手知ったる映写技師の部屋に忍び込んでいた。/電熱器のうえの鍋では、ご飯が炊きあがったばかりのようで、部屋中に香ばしいかおりが充満していた。気がついたときには手近の杓子で、顔にまとわりつく湯気を払いのけるようにしてまじっりっ気のない真っ白いご飯をすくいとって口にしていた。/しかし、久しぶりに味わった銀シャリの味は記憶にない。一瞬後、自分のやったことに気づいて愕然とし、僕はあわてて逃げだした。……」。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 0492004

 ひるがほに紙の日の丸掛かりをり

                           吉田汀史

語は「ひるがほ(昼顔)」で夏。ちなみに「朝顔」は秋。まだ近所には咲いているが、そろそろ「昼顔」もお終いだろう。育てる人がいない野生の花だけに、いつの間にか咲き始め、いつの間にか終わってしまうという印象が濃い。典型的な路傍の花である。そんな打ち捨てられたような花に、これまた打ち捨てられた「紙の日の丸」が掛かっている。夕刻になれば紙くずのようになってしまう昼顔と、もはや紙くずと化した日の丸と。もちろん昼顔に掛かっているのは偶然だが、この取り合わせは哀れを誘う。何かの催事に使われた紙の旗が吹き寄せられてきたのだろうか、それとも子供が捨てた手製の旗だろうか。何にせよ、すぐにくしゃくしゃになってしまうもの同士が、こうしてしばし身を寄せ合っているのかと見れば、哀れさは一入だ。ましてや、片方はチラシ広告や新聞の切れ端などではなくて国旗である。ある程度以上の年代の人にとっては、現在の国旗観がどのようなものであれ、路傍に放棄された姿には一瞥チクリと来るものがあるにちがいない。単なる紙くずとは思えないのだ。だから掲句は、読む者の世代によって哀れの色彩がかなり異なるとは言えそうだ。「紙の日の丸」と、わざわざ「紙の」と表記したところにも、作者の年代がおのずから浮き上がっている。俳誌「航標」(2004年9月号)所載。(清水哲男)


September 0392004

 よく晴れて秋刀魚喰ひたくなりにけり

                           和田耕三郎

刀魚の句というと、たいていはじゅうじゅう焼いている場面のものが多いなかで、こうした句は珍しい。ありそうで、無い。「よく晴れて」天高しの某日、体調もすこぶる良好。むらむらっと秋刀魚が「喰ひたく」なったと言うのである。この句を読んだ途端に、私もむらむらっと来た。句に添えて、作者は「晴れた日は焼いた秋刀魚を、雨の日は煮たものが食べたい」と書いているが、その通りだ。料理にも威勢があって、とくに威勢のよい焼き秋刀魚などは、威勢良く晴れた日に食べるのがいちばん似合う。秋刀魚は昔ながらの七輪で焼くのがベストだけれど、我が家には無いので、仕方なく煙の漏れない魚焼き器で焼いている。これはすこぶる威勢に欠けるから、そう言っては何だけど、どうも今ひとつ美味くないような気がする。食べ物に、気分の問題は大きいのだ。秋刀魚で思い出したが、学生時代の京都にその名も「さんま食堂」という定食屋があった。メニューは、ドンブリ飯に焼いた秋刀魚と味噌汁と漬け物の一種類のみ。一年中、いつ行ってもこれ一つきりで、毎日ではさすがに飽きるが、よく出かけたものだ。旬のこの季節になると、やはり相当待たされるくらいに繁盛していたけれど、あの店はどうなったかしらん。むろん、厨房にはいつも威勢良く煙が上がっていた。「俳句」(2004年9月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます