種村季弘さん死去。新宿の酒場で「表へ出ろ」と血相を変えたタネさんを思い出す。悼。




2004ソスN9ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0492004

 ひるがほに紙の日の丸掛かりをり

                           吉田汀史

語は「ひるがほ(昼顔)」で夏。ちなみに「朝顔」は秋。まだ近所には咲いているが、そろそろ「昼顔」もお終いだろう。育てる人がいない野生の花だけに、いつの間にか咲き始め、いつの間にか終わってしまうという印象が濃い。典型的な路傍の花である。そんな打ち捨てられたような花に、これまた打ち捨てられた「紙の日の丸」が掛かっている。夕刻になれば紙くずのようになってしまう昼顔と、もはや紙くずと化した日の丸と。もちろん昼顔に掛かっているのは偶然だが、この取り合わせは哀れを誘う。何かの催事に使われた紙の旗が吹き寄せられてきたのだろうか、それとも子供が捨てた手製の旗だろうか。何にせよ、すぐにくしゃくしゃになってしまうもの同士が、こうしてしばし身を寄せ合っているのかと見れば、哀れさは一入だ。ましてや、片方はチラシ広告や新聞の切れ端などではなくて国旗である。ある程度以上の年代の人にとっては、現在の国旗観がどのようなものであれ、路傍に放棄された姿には一瞥チクリと来るものがあるにちがいない。単なる紙くずとは思えないのだ。だから掲句は、読む者の世代によって哀れの色彩がかなり異なるとは言えそうだ。「紙の日の丸」と、わざわざ「紙の」と表記したところにも、作者の年代がおのずから浮き上がっている。俳誌「航標」(2004年9月号)所載。(清水哲男)


September 0392004

 よく晴れて秋刀魚喰ひたくなりにけり

                           和田耕三郎

刀魚の句というと、たいていはじゅうじゅう焼いている場面のものが多いなかで、こうした句は珍しい。ありそうで、無い。「よく晴れて」天高しの某日、体調もすこぶる良好。むらむらっと秋刀魚が「喰ひたく」なったと言うのである。この句を読んだ途端に、私もむらむらっと来た。句に添えて、作者は「晴れた日は焼いた秋刀魚を、雨の日は煮たものが食べたい」と書いているが、その通りだ。料理にも威勢があって、とくに威勢のよい焼き秋刀魚などは、威勢良く晴れた日に食べるのがいちばん似合う。秋刀魚は昔ながらの七輪で焼くのがベストだけれど、我が家には無いので、仕方なく煙の漏れない魚焼き器で焼いている。これはすこぶる威勢に欠けるから、そう言っては何だけど、どうも今ひとつ美味くないような気がする。食べ物に、気分の問題は大きいのだ。秋刀魚で思い出したが、学生時代の京都にその名も「さんま食堂」という定食屋があった。メニューは、ドンブリ飯に焼いた秋刀魚と味噌汁と漬け物の一種類のみ。一年中、いつ行ってもこれ一つきりで、毎日ではさすがに飽きるが、よく出かけたものだ。旬のこの季節になると、やはり相当待たされるくらいに繁盛していたけれど、あの店はどうなったかしらん。むろん、厨房にはいつも威勢良く煙が上がっていた。「俳句」(2004年9月号)所載。(清水哲男)


September 0292004

 鬼やんまとんぼ返りをして去りぬ

                           田代青山

語は「やんま」で秋。「蜻蛉(とんぼ)」に分類。蜻蛉のなかでも、近年とくに見かけなくなったのが「(鬼)やんま」だ。全国的な都市化、環境破壊のせいである。たまに見かけると、「おっ」ではなく「おおっ」と思う。掲句にはまた別の意味で「おおっ」と思った。「とんぼ返り」といえば歌舞伎でのそれを指したり、「♪とんぼ返りで今年も暮れた」などと用いる。むろん誰もがこの言葉が蜻蛉の生態から来ていることは知っていようが、普通にはこれら比喩的な表現のほうが主となっていて、もはや本家のほうは忘れられているに等しい。「とんぼ返り」と聞いて、蜻蛉の姿を思い浮かべることはないのである。ところが作者はこれを逆手に取って、蜻蛉(鬼やんま)そのものにとんぼ返りをさせている。つまり、言葉の本義をそっくり元通りに再現してみせたわけだ。当たり前じゃないか、などと鼻白むなかれ。当たり前は当たり前だとしても、実際にこうして本物のとんぼ返りを確認したときに、ふっと湧いてくる新鮮な心持ちのほうに入り込んで読むべきだろう。そしてまた、当たり前が見事に当たり前であるときに感じる可笑しさのほうにも……。あっけらかんとした詠みぶりも良い。鬼やんまの生態に、ぴしゃりと適っている。『人魚』(1998)所収。(清水哲男)




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