今年も三分の二が経過。編集者だったせいか、ぼつぼつジングルベルが聞こえてきそう。




2004ソスN9ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0192004

 二通目の手紙大切いわし雲

                           ふけとしこ

語は「いわし雲(鰯雲)」で秋。「鱗(うろこ)雲」、「鯖(さば)雲」とも。「秋天、鰯先よらんとする時、一片の白雲あり、その雲、段々として、波のごとし、是を鰯雲と云」(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』)。秋を代表する美しい雲だ。掲句の「二通目の手紙」には、ちょっと迷った。最初は同一人から連続して配達されてきた二通目だろうかとも考えたが、いわし雲との取り合わせがいまひとつ不明確。抽象的なレベルでの相関関係も探ってみたけれど、探るうちに、素直に戸外での情景と読むほうが面白いと思えてきた。良く晴れた秋空の下、作者は手紙を投函しに行く途中である。何通かの手紙を手にしていて、そのうちの「二通目」が大事なのである。言われてみれば、私なども大事な手紙は数通の間に挟んで出しに行く。直接、表にはさらさない。宛名書きを汚してはいけないとか、何かに引っかけて破いてはいけないとか、そうした配慮が自然に働くからだ。そして、手紙を書くとは何事かの決着をつけるためであり、それを投函することで書いた側の一応の決着が着くことになる。深刻な内容のものならばなおさらではあるが、軽い挨拶程度の手紙でも、決着という意味では同じことだろう。句の「いわし雲」はもとより実景だが、心理的には決着をつける心地よさが反映されていると読んだ。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


August 3182004

 ひらひらと猫が乳呑む厄日かな

                           秋元不死男

句で「厄日(やくび)」といえば「二百十日」のこと、秋の季語。今年は閏年なので、今日にあたる。ちょうど稲の開花期のため、農民が激しい風雨を恐れて「厄日」としたものだ。その恐れが農家以外の人々にもストレートに伝わっていたのだから、この国の生活がいかに農業に密着していたかがよくわかる。今年は台風の当たり年。折しも大型の台風が九州を抜け日本海側を通過中で、それらの地方では暦通りの厄日となってしまった。掲句に風雨のことは一切出てこないけれど、そんな台風圏のなかでの作句だろう。表は強い風と雨にさらされていて、薄暗い家の中に籠っているのは作者と猫だけだ。猫もさすがに少しおびえたふうで、ミルク(乳)を与えると大人しく呑んでいる。こういうときには、生き物同士としての親密感が湧くものだ。そして、か弱いものを守ってやろうという保護者意識も……。だから、普段は気にすることもない猫の食事を、作者はじっと眺めている。「ひらひらと」は猫が乳を舐める舌の様子でもあり、自然の猛威の中ではなんとも頼りない猫の存在と、そして作者自身の心理状態でもあるだろう。ひらひらと吹けば飛ぶよな猫と我、と昔の人なら言ったところだ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 3082004

 売れ残る西瓜に瓜のかほ出でて

                           峯尾文世

語は「西瓜」で秋。なぜ西瓜が秋なのかと私たちは訝るが、その昔は立秋以降の産物だったようだ。その昔と言っても、おそらくは元禄期ころで、そんなに大昔のことでもない。初期普及時には血肉に似ているので、嫌われたという話がある。掲句は一読、いや三読くらいして、じわりと面白さが広がってきた。なるほど、売れ残ってしょんぼりしたような西瓜からは、だんだん「瓜のかほ」が表れてくるようだ。もとより誰だって西瓜が瓜の仲間であるのは知っているけれど、南瓜もそうであるように、日頃そんなことはあまり意識していない。マクワウリなどの瓜類とは、違った意識で接している。産地で見るのならまだしも、暑い盛りの八百屋の店先や家庭の食卓で見るときには、ほとんど瓜類とは思わないのではなかろうか。それが秋風が立ち涼しくなり、売れ残りはじめると、西瓜の素性があらわに「かほに」出てくると言うのである。言われて納得、何度も納得。ユーモラスというよりも、そこはかとないペーソスの滲み出てくる良質な句だ。観察力も鋭いのだろうが、私には作者天性の感受性の豊かさのほうが勝っている句と思われた。いくら企んでも、こういう発想は出てこない。上手いものである。「東京新聞」(2004年8月28日付夕刊)所載。(清水哲男)




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