終日雨の予報。これを幸いに来月の看板作りに励みましょうか。Flashを使う予定です。




2004ソスN8ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2882004

 音もなく星の燃えゐる夜学かな

                           橋本鶏二

語は「夜学」で秋。大阪の釜が崎に隣接する工業高校(定時制)に三十三年間、国語教師として勤務した詩人の以倉紘平に『夜学生』(編集工房ノア)という著書がある。体験をもとに書かれたドキュメンタリーだ。今日、大多数の人は、当たり前のように昼間の高校に通い卒業していく。私もそのひとりだが、読み終えて非常な衝撃を受けた。一言でいえば「夜学生(夜間高校生)」にこそ社会の矛盾が集中しているのであり、しかも彼らはそれを具体的に引き受けて日々生きていく存在であるということに……。しかし、著者は苦学生である彼らを、ことさらに美化してはいない。困難な条件の下で驚くべき向学心を発揮する者がいるかと思えば、どうしようもないダメ生徒やワルもいる。数々のエピソードは、そんな彼らの姿を生き生きと描き出し、それがそのまま世の中の矛盾を炙り出していく。そしてまた、社会が常に変動していくように、彼らのありようも変化を止めることはない。たとえば著者は「昔のワルは少なくとも正直だった」という。人を殴ったら、それを認める勇気があった。が、現在のワルは認めない。「センコウ、証拠を見せろ」としらを切りつづける。全体的に、向学心も薄れてきたようだ。「かつて、夜学は、人間教育の場であった。人生の困難を背負った生徒たちが、ぶつかり合い、励まし合い、助け合って、最もよき人生の旅を経験するところに意義があった」。そんな時代の生徒たちの生き方には、卒業後も感動的なものがある。とくに連帯感の強さは、全日制高校出身者の比ではない。それが、なぜ、今のように多くの生徒が「しらけ」てしまったのか。ここには、戦後社会の進み方の何か大きな錯誤がある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2782004

 朝蜩ふつとみな熄む一つ鳴く

                           川崎展宏

語は「蜩(ひぐらし)」で秋。名前通りに夕刻にはよく鳴くが、夜明け時にも鳴くので「朝蜩」。朝方は鳴く数も少ないから、何かの具合で句のように「ふつとみな熄(や)む」ことがあるのだろう。瞬間「おや」と訝った作者の耳に、再び「一つ」が鳴きはじめたと言うのである。いくら哀調を帯びているとはいっても、雨や風の音などと同様に、日常的には蜩の鳴き声に耳そばだてて聞き入る人はいない。よほど激しくない限り、鳴いているのかどうかも定かではないのが普通の状態だ。だが、そうしたいわば自然音が、句のように突然はたと途絶えたときには、途端に人の耳は鋭敏になる。天変地異を感じたというと大袈裟だが、どこかでそれに通じるところのある自然の破調には、同じ自然界に生きるものとして、本能的に身構えてしまうからなのだと思う。したがって掲句は、蜩のある種の生態をよく捉えている以上に、人間本来の生理的な感覚をよく活写定着し得ている。蜩の句というよりも、蜩を詠んで人間を捉えた句とでも言うべきか。再び鳴きはじめた「一つ」を聞いたときにこそ、作者はほっとして傾聴したであろうし、いとおしいような哀感を覚えたことだろう。朝の蜩か……、遠い少年期に聞いたのが最後になってしまっている。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


August 2682004

 抱へゆく不出来の案山子見られけり

                           松藤夏山

語は「案山子(かがし)」で秋。「かかし」と発音する人のほうが多いと思うが、「かがし」と濁るのが本来だ。大昔には鳥獣の毛や肉を焼いて、その臭いで害鳥などを追い払った。つまり「嗅がし」に語源があるので濁るというわけである。この句を読んであらためて、案山子にもちゃんと作者がいるのだと気づかされた。当たり前といえば言えるけれど、通りすがりに眺める人のほとんどが、作者の存在には思いが及ばないだろう。よほど目立つ傑作は別にして、作りの上手下手なども気にはかけない。それに案山子の役割は害敵を追い払うことなので、人の目から見た巧拙が、そのレベルの高低で鳥たちに通じるかどうかも疑問だ。「なんだ、こりゃ」みたいな下手っぴいな作りの案山子が、いちばん効果を上げるかもしれないのである。いくら造形的に優れていても、効果がゼロなら話にもならない。要するに、当事者以外はどんな案山子だって良いじゃないかと思うしかないのである。ところが句の作者のように当事者ともなると、事情は大きく変わってくる。そこはそれ近所の手前もあって、そう下手なものは作れない。が、結果は無惨な案山子が出来上がり、立てないわけにもいかないのでコソコソと隠すようにして運んでいる途中で、不運にも「見られけり」。冷や汗が吹き出たことだろう。笑っちゃ悪いけれど、思わずも笑っちゃった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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