五輪は開会式のビデオを数分見ただけ。高校野球ありプロ野球ありで、それだけで満腹。




2004ソスN8ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1782004

 昼顔の見えるひるすぎぽるとがる

                           加藤郁乎

語は「昼顔」で夏。一つ一つの花は可憐ではかなげに写るが、猛暑をものともせずに咲くのだから、あれで芯は相当に強いのだろう。そんな昼顔が、けだるさも手伝ってぼおっと見えている暑い午後の句だ。ここまでは誰にでも理解できるけれど、さあ下五の「ぽるとがる」との取り合わせがわからない。むろん作者も実際のポルトガルにあって、この句を作ったわけではない。しかし句の字面をじっと眺めていれば、あるいは句を何度か舌頭に転がしてみれば、静かな悲しみを帯びた不思議な魅力が立ち上がってくるのがわかる。多用された平仮名のやわらかい感じ、重ねられた「る音」のもたらす心地よさ。像も結ばないし意味も無い句でありながら、このような印象を受けるのは、やはり私たちの言葉に対する信頼の念があるからだろう。言葉に向き合ったとき、私たちは当然のように何らかの結像や意味を求める。その心的ベクトルをすっと外されたときに受ける戸惑いが、この句の魅力を生み出すとでも言うべきか。外した作者の外し方も、人が言葉に向き合うときのありようを熟知している。途中からの平仮名表記は、読者に最後まで一気に読ませるためのマジックなのであって、この間に漢字や片仮名を配置したのであれば途中で放り出されてしまう。つまり掲句は最後まですらりと読めるように書かれており、読み終えてから読者が「あれっ」と振り返る構造になっているわけだ。その「あれっ」があるからこそ、なんとも不思議な魅力を覚えることになる。ナンセンスの世界へと人を誘うためには、生半可な技巧ではおぼつかない。『球體感覚』(1959)所収。(清水哲男)


August 1682004

 天と地の天まだ勝る秋の蝉

                           守屋明俊

京都心の真夏日連続記録は一昨日(2004年8月14日)までで途切れたが、40日といううんざりするほどの長さだった。しかし、週間天気予報では、また今日から真夏日がつづきそうだと出ている。どこまでつづく真夏日ぞ、やれやれだ。さて、句の季語は「秋」ではなくて「秋の蝉」。立秋を過ぎると、ヒグラシやホウシゼミなどの澄んだやや寂しい感じの鳴き方をする蝉が増えてくる。が、この句ではそのなかでもミンミンゼミのようなアブラゼミ顔負けの元気な鳴き方のものを指しているのだろう。むろんまだまだアブラゼミも元気だから、両者の合唱は盛夏のころよりも騒々しく、それが時雨のように「天」から降り注ぐ感じは、なるほど「天まだ勝る」いきおいである。「天と地」と大きく振りかぶった句柄は、人の意識に酷暑がその間にあるもろもろの物事や現象を亡失せしめた状態を表していて、卓抜だ。企んで振りかぶったというよりも、暑さの実感が振りかぶらせたのである。今日は旧盆の送り火。京都では大文字の火が見られ、これぞ「天と地」をあらためて想起させる行事と言えるだろう。藤後左右に「大文字の空に立てるがふとあやし」の一句あり。『蓬生』(2004)所収。(清水哲男)


August 1582004

 堪ふる事いまは暑のみや終戦日

                           及川 貞

争が終わったから平和が訪れたからといって、その日から「堪ふる事」が消滅したわけではない。生き残った者にとっては、戦後こそが苦しかったと言うべきか。平和を謳歌できるような生活基盤などなかったので、多くの人々が忍耐の日々を重ねていった。この句は、戦後も二十年を経てからの作句で、ようよう作者はここまでの心境にたどり着いている。たどり着いてみれば、しかし若さは既に失われ、往時茫々の感もわいてくる。作者の本音を訪ねれば、この暑中、何をまた語るべきの心境であるのかもしれない。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)




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