仙台はじめ各地で七夕祭りが開かれている。やはり梅雨の最中よりもこの時期がいいな。




2004ソスN8ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0782004

 新刊の机上に匂ひ秋立てり

                           佐野幸子

う、秋か。しかし毎年のことながら、「秋立つ(立秋)」とはいっても、昨日に同じ暑い日であることに変わりはない。だからこの日を秋として表現するには、体感だけではままならないことが多い。そこで「目にはさやかに見えねども」のなか、何か一工夫が必要となる。掲句は「机上」の「新刊」書に着目して、その「匂ひ」たつような新鮮な印象で新しい季節の到来を暗示してみせている。読書の秋なる常套句への連想効果を、あるいはちょっぴり期待してのことかもしれない。いずれにしても、新刊書は四季のなかではもっとも秋に似合う小道具だろう。「匂ひ」とあるけれど、これは実際のインクの匂いかどうなのか。昔と違って新聞などを含め、最近の印刷物はインクの匂いがしなくなった。インクそのものが改良されたこともあり、また活版印刷が姿を消したこともあって、とくに新聞で手が汚れなくなったのはありがたいが、開いたときにつんと鼻をつく良い匂いが失われたのは淋しい。私は掲句が載っていた歳時記の成り立ちなどからして、比較的新しい作品と判断し、一応「『匂ひ』たつような」と解釈しておいた。が、古い句であれば、当然新しいインクの香りとなるわけで、こちらのほうがより立秋の感覚にふさわしいとは思うが、実際のところはどうなのだろうか。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


August 0682004

 吾がかむり得ざりし角帽夏休み

                           杉本幽烏

前の句だろうか。おそらく作者は家庭の貧しさのために、勉学心はあったが、大学に行くことを断念したのだ。友人知己の誰かれが都会に遊学していくなかで、地元に残って働いている。往年の「角帽」はエリートの象徴みたいなものだったから、「夏休み」に帰省してくる学生たちの帽子は、よほど目にまぶしく沁み入ったにちがいない。羨望の念もあるだろうが、嫉妬のそれもある。そうしたコンプレックスを押し殺しつつ働く作者には、彼らの屈託のない態度も逆に辛い。大学生になった息子の角帽とも読めるが、こういう夏休みの捉え方もあったのである。さらりと読んではいるけれど、それだけに作者の哀感がしんみりと伝わってくる佳句だ。いまでは応援部くらいしかかぶらなくなった角帽だが、私が入学した昭和三十年代前半期くらいまでは、なんとかまだ生き延びてはいた。とくに新入生は、すぐにかぶらなくなったにせよ、求めなかった者はそんなにいなかったのではあるまいか。もはやエリートの象徴などとは思わなかったが、なにせ丸刈り頭に詰め襟の学生服を着ているのが普通だったので、高校時代の延長のような気分もあったと思う。帽子をかぶらないと、なんとなく落ち着かなかった。しかし、やがて丸刈り頭や学生服が廃れてきたことで、学帽も姿を消すことになる。だから、この句の味がわかる人は、ある程度の年代以上に限られてしまうだろう。『俳句歳時記・夏之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


August 0582004

 缶詰の蜜豆開ける書斎かな

                           下山田禮子

語は「蜜豆」で夏。読書中か、あるいは何か書き物をしているのだろうか。ふっと蜜豆が食べたくなって、冷蔵庫に冷やしておいた「缶詰」を出してきた。人によりけりではあるが、書斎でお八つを食べたりするときには、しかるべき器に入れたり盛ったりしてから食べるのが普通だろう。作者もまた、通常はそうしている。でも、このときにはそれをしないで、書斎で缶詰を開けたのである。つまり、大仰に言えば厨房の作業を書斎に持ち込んだのだ。よほど忙しいのか、ずぼらを決め込んだのか。とにかく日頃とは違う作業を書斎ではじめてみると、やはり違和感を覚えてしまう。汁が飛び散ってはいけないとか、ましてやひっくり返しては大変だとか、つかの間のことにしても、厨房とは違った配慮も必要だからだ。そうすると、いつもは何とも思っていなかった書斎空間が、これまた大仰に言えば異相を帯びて感じられることになった。それが、作者をして「かな」と言わしめた所以であろう。このときの缶詰は、いまどきのように蓋をすっと引き開けるものではなくて、缶切りで開けるタイプのものがふさわしい。食べるのも、器に移し替えずにそのままスプーンで掬うほうが、句にはよく似合う。缶特有の匂いが、ちょっと蜜豆のそれに混ざったりして……。『恋の忌』(2004)所収。(清水哲男)




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