増俳八周年記念懇親句会盛況裡に終了。ご参加のみなさま、ありがとうございました。




2004ソスN8ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0182004

 ひまはりと高校生らほかにだれも

                           竹中 宏

語は「ひまはり(向日葵)」で夏。漢字名のように、花は太陽の動きにあわせて向きを変える。たくさん咲いていても、どれもみな同じように見える。その向日性において、また同じように見えるという意味でも、高校生の集団に通い合うものがありそうだ。夏休み、部活かなにかの「高校生ら」が向日葵の咲く野か路傍に見えている。炎天下ということもあり、元気な彼ら以外には「ほかにだれも」いない。こうした夏の白昼の光景は、なんだかサイレント映画のように森閑とした印象だ。その印象が、作者をみずからの高校生時代の記憶に連れて行ったのだろう。面白いもので、過去の記憶に絵はあっても、めったに音は伴わない。だからこのときの作者の眼前の光景と過去のそれとは苦もなくつながる理屈で、とたんに作者は過ぎ去ってしまった青春に深い哀惜の念を覚えたのだ。と同時に、いま眼前にある高校生らと向日葵の花の盛りの短さにも思いがいたり、青春のはかなさをしみじみと噛みしめることになった。「ほかにだれも」で止めたのは、いま青春の只中にあるものらへの作者の優しさからだ。彼らは昔の自分がそうであったように、はかなさに気づいてはいない。ならば青春は過ぎやすしなどと、あえて伝えることもないではないか。「だれも(いない)」と口ごもったところに、句の抒情性が優しくもしんみりと滲んでいる。『花の歳時記・夏』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


July 3172004

 かの映画ではサイレント夏怒濤

                           依田明倫

前には、夏の海がギラギラと展がっている。むろん、激しく打ち寄せる波の音も聞こえてくる。が、作者はその「怒濤(どとう)」を、いつかどこかで見たようなと思い起こし、それが映画の一シーンであったことに気がついた。と同時に、映画の怒濤には音が付いていなかったことも……。このように現実を前にしながら、非現実の映像を重ねてしまうというようなことは、しばしば起きる。私も怒濤を目にするたびに、何故かかつての東映映画のクレジット・タイトルを思い出してしまう。あれも「サイレント」だったような気がするが、ひょっとすると作者もあのタイトルのようだと思ったのかもしれない。あるいはそのままに、昔見たサイレント映画を思い出したと読んでもよい。いずれにしても、現実と映像が自分のなかで交互に行き来する心的現象は、現代ならではのものだ。それが嵩じて、現実とフィクションの世界の区別がつかなくなる可能性も、無きにしも非ずだろう。だから危険だと言って、フィクショナルな表現に規制をかけようとする動きも出てくるわけである。いささか話が先走りすぎたが、作者は「かの映画」の怒濤を思い出したときに、それを見た頃の自分や生活環境などにも、ちらりと心が動いたにちがいない。思わぬときに思わぬところから、人は不意に郷愁に誘われるのでもある。「俳句研究」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


July 3072004

 帰省して蛍光燈を替へてゐる

                           田中哲也

語は「帰省」で夏。夏休みで、久しぶりに父母のいる実家に戻ってきた。早速、母親に頼まれたのだろうか。暗くならないうちにと、脚立に上って「蛍光燈を替へている」のである。それだけのことなのだけれど、帰省子の心情が、ただそれだけのことなので、逆に余計によく伝わってくる。私にも体験があるからわかるのだが、とくにはじめての帰省の時などは、遠慮などいらない実家のはずなのに、なんとなく居心地の悪さを感じたりするものなのだ。むろん客ではないが、かといって従来のような家族に溶け込んでいる一員というのでもない。互いに相手がまぶしいような感じになるし、気ばかり使って応対もぎごちなくなってしまう。肉親といえどもが、しばらくでも別々の社会に生きていると、そんな関係になるようだ。だから、こういうときに例えば蛍光燈を替えるといった日常的な用事を頼まれると、ほっとする。すっと、理屈抜きに以前の家族の間柄に戻れるからである。句の「蛍光燈を替へている」が「替へにけり」などではなくて、現在進行形であることに注目したい。いままさに蛍光燈を替えながら、やっとそれまでのぎごちない関係がほぐれてきつつある気分を、なによりも作者は伝えたかったのだと思う。替え終えて脚立から下りれば、もうすっかり従来の家族の一員の顔になっている。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます