台風10号接近中。今年の夏は猛々しい。せっかくの夏休み、事故など起きませんように。




2004ソスN7ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2972004

 嘆きとかアイスキャンデーとか湖畔

                           池田澄子

語は「アイスキャンデー(氷菓)」で夏。言葉には表情がある。「湖畔(こはん)」は「湖のほとり」や「湖の近辺」を意味するに過ぎないが、しかし「湖のほとり」と「湖畔」とでは明らかに表情が違うのである。湖畔はいわば雅語であり、あまり俗なことを言うときには似合わない。高峰三枝子の流行歌「湖畔の宿」ではないけれど、傷心の女が訪ねたりするのが湖畔なのであって、句の「嘆き」はそのあたりに通じさせてある。で、一方の「アイスキャンデー」は俗の代表みたいなもので、嘆きとセットでイメージしてみると、湖畔という言葉の持つ雅びな雰囲気はぶちこわしだ。第一、傷心の女がアイスキャンデーを舐めたのでは、絵にならない。でも掲句は、湖畔といっても「いろいろ、あらあナ」と皮肉っているだけではないだろう。人は言葉を操っているうちに、言葉それ自体についてまわっている一般的な表情を、はぎ取りたい欲望にかられるときがある。季語としての言葉などはその代表格で、何でもよろしいが、名句やら何やらがつきまとうが故の季語の表情に、イライラした経験を持つ人も多いだろう。だから私は掲句を、湖畔という言葉への皮肉ととる前に、言葉の表情への苛立ちをそのまま軽いジャブとして突き出してみせる作者の手つきのほうに惹かれた。俳誌「豈」(39号・2004年7月30日刊)所載。(清水哲男)


July 2872004

 水着の背白日よりも白き娘よ

                           粟津松彩子

ルコム・カウリー(アメリカの詩人、文芸評論家、編集者)著『八十路から眺めれば』(小笠原豊樹訳・草思社)は、老いを考えるうえでなかなかに興味深い本だ。文字通り八十歳を過ぎてから書かれていて、冒頭近くに「老いを告げる肉体からのメッセージ一覧」というリストが載っている。「骨に痛みを感じるとき」「昼下がりに眠気が襲ってきたとき」などに混じって、「美しい女性と街ですれちがっても振り返らなくなったとき」があげられている。つまり、異性への性的な関心が無くなってしまったことを、意識ではなく肉体が告げるときが来るということのようだ。カウリーに言わせれば、私のような六十代などはまだまだ「少年少女」の部類らしいから、こういうことはわからないままに過ごしていられる。「美しい女性」とは認めても、ちらとも肉体が反応しないのはショックなのだろうか、それともそのことにすら驚かなくなるのだろうか。掲句はまさに作者八十路での作句であるが、なんとなくカウリーと同じことを言っているような気がする。「白日よりも白き」背中の娘(こ)に、格別性的な関心を覚えてはいないようだからだ。ただ、水着姿の真っ白い背中がそこに見えた。一瞬目を奪われるが、それだけである。おそらく「白日よりも」という無表情な比喩が、この若い女性から色気を抜き去る方向に作用しているからだろう。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


July 2772004

 病む人に雪かと問はる灼け瓦

                           伊佐利子

語は「灼(や)け・灼く」で夏。「砂灼くる」「風灼くる」などの形でも用いられる。昨日(2004年7月26日付)の「朝日新聞」東京版「朝日俳壇」に載っていた句だ。金子兜太の選評に、こうある。「炎昼の光に照りつけられて、雪のように白い屋根瓦の見える病床。本当の雪かと見とがめる病いの人。情景の切りとり方が鋭く、劇のひとこまのごとし」。情景の切りとり方に触れて広げておけば、病いの人の寝ている部屋の様子までが見えるようだ。二階以上の高さにある部屋だろう。窓は、そんなに大きくはない。だから、いつも病人に見えているのは空と瓦屋根だけである。つまり家の周辺の草木など他の部分が見えないので、まさか夏に雪が降るわけはないと承知していても、ついぽろりと「雪か」と口から出てしまった。それほどに猛烈な光の照り返しなのだ。まさに「劇のひとこま」のようであるが、しかしそれが現実であるところに、猛暑のなかで寝ているしかない病人の焦燥感や孤独感までもが浮き上がってくる。看病している作者は「雪か」と問われて、むろん「そんな馬鹿なことが……」と軽く応えたのではあろうが、応えつつ病人の心の奥の深い傷みに触れた思いがしたにちがいない。「夏」と「雪」。なんとも意外な取り合わせが少しも意外を感じさせないで、読者の胸に自然にじわりと沁みいってくる。(清水哲男)




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