昨日の東京は気の遠くなりそうな猛暑。今日も35℃を越えそうだ。寝不足警報発令中。




2004ソスN7ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2172004

 天の川ナイルの尽くるところより

                           照井 翠

語は「天の川」で、最も美しく見える秋に分類する。天と地を流れる二つの川が、果ての果てではつながっている。もとより幻想句だが、実際に「ナイル」上空の天の川を仰げば、幻想はほとんど現実と同じように感じられるのではあるまいか。二つの川の圧倒的な存在感が、言葉の小細工など撥ね除けて、作者にかくも単純素朴な表現をとらせたのだろう。これが日本の川であったら、こういう句にはなりにくい。天の川と拮抗できるほどの大河がないからだ。芭蕉のように佐渡の「海」を持ってきて、ようやく釣り合うのである。ところで、倉橋由美子が天の川に行った男の話を書いている。その名も「天の川」(『老人のための残酷童話』所収)という短編で、中国では黄河と天の川がつながっていると信じられているが、それは俗説で、実際には別の秘密の水路があるという設定だ。で、足を踏み入れた天の川はどんなところだったか。「かつて経験したことのない寒さが骨の髄までしみこんできました。といっても凍傷ができるような寒さではありませんし、寒風が吹きすさぶわけでもありません。ここの空気は玲瓏として動かず、冷たい水の中、というよりも、水晶の中に閉じこめられているかのようです。慣れてくると、この絶対的な寒冷は、およそ汚れや腐敗とは無縁の清浄がもつ属性ではないかと思われました。……」。寒い上に怖いお話だから、真夏の読書には最適だろう。句は『翡翠楼』(2004)所収。(清水哲男)


July 2072004

 川へ虹プロレタリアの捨て水は

                           原子公平

語は「虹」で夏。敗戦後、数年を経た頃の作と思われる。すなわち、まだ「川」が庶民の生活とともにあった時代だ。清冽な流れであれば飲食用にも使っていたし、そうでなくとも洗い物などを川ですませる人々は多かった。句はそんな誰かが、余って不要になった水をざあっと川に「捨て」たところだろう。見ていると、その人の手元から淡く小さな「虹」が「川へ」立ったというのである。失うものなど何もない「プロレタリアの捨て水」が、束の間の虹を描く光景ははかなくも美しいが、しかし、その虹は未来への希望にはつながらないのだ。「捨て水」という言葉には、単に水を捨てる写実的な様相と、他方には川をいわば心の憂さの捨て所と見る目がダブらせてあるのだろう。庶民であることのやり場の無い感情が、抒情的に昇華された絶唱である。既に新聞報道でご存知かとは思うが、作者の原子公平氏は一昨日(2004年7月18日)亡くなられた。八十四歳だった。一度も面識は得なかったが、当歳時記の最初の一句が氏の「悔しまぎれの草矢よく飛ぶ敗北なり」ということがあり、また何度かお手紙や句集をいただいたこともあって、残念な思いでいっぱいだ。抒情の魂を社会的に鋭くイローニッシュに開いてゆく氏の方法が、俳句のみならず、この国の詩歌に残したものは大きいだろう。慎んでご冥福をお祈りする。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


July 1972004

 夏休み生徒の席に座りみる

                           中田尚子

者は中学教師だ。夏休み中に、仕事で学校に出かけた。誰もいないがらんとした教室で、ふと気まぐれに「生徒の席に」座ってみたというのである。それだけのことなのだが、そこで作者の感じたことは「それだけのこと」を大きく越えていただろう。生徒の席から見えるものは、教壇からのそれとはだいぶ異る。たった数メートルの位置の差しかないのだけれど、目をやる方向が逆になることによって、目線も低くなるし、同じ教室とは思えないような雰囲気に囲まれる。「それだけ」でも新鮮な発見だったろうが、このときに作者に更に見えてきたのは、いつも教壇に立って教えている自分自身の姿だったはずである。生徒たちには、いったい自分がどんなふうに見えているのか。こうやって生徒の椅子に座ってみて、はじめてわかったような気持ちになれたに違いない。ちらっと想像してみるくらいでは、こういうことは案外にわからないものだ。むろん、生徒側においても然りである。昨日の加藤耕子句の蟻ほどではないにしても、それぞれの日常的な位置や空間のありようにしたがって、それぞれの世界がおのずと形成されてきてしまう。面白いものである。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)




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