老人ホームに入ったとすると、短冊には何と書くだろう。ふとそんなことを思う七夕。




2004ソスN7ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0772004

 おとうとをトマト畑に忘れきし

                           ふけとしこ

語は「トマト」で夏。フィクションととらえてもよいし、かつて実際にあったこととしてもよい。この句の良さは、実に的確に「おとうと」のありようが把握されているところだ。彼の年代は、学齢前のちょこまかと動き回るころだろう。お姉ちゃんの行くところには、どこにでも就いてきたがる。就いてくるのはよいのだが、なかなか言うことは聞かないし、自分の関心事にすぐに没頭して座り込んだりと、世話が焼ける。そしてときには、ぷいと断りもなく帰ってしまったりして、面倒を見きれないとはこのことだ。今日も今日とて、近くのトマト畑に就いてきた。お姉ちゃんはトマトをもぎに来たわけだが、彼は彼で勝手に畑を動き回っている。いつものことだから勝手にさせておき、さて帰ろうとして見回すと姿が見えない。小さいからトマトのかげにいるのかと少し探してみて、名前を呼んでもみたけれど、どうももう畑にはいないようである。また先に帰ったのだと軽い気持ちで家に戻ってみると、まだ帰ってはいないという。昼間だから、別に真っ青になる事態ではない。「まったく仕様がないなあ」。幼き日の作者であるお姉ちゃんは、ぷんぷんしながら迎えに行かなければならなかった。日盛りのトマト畑に来てみると、小さな麦わら帽子が揺れていた。遠い遠い思い出だ。でも、いまとなってはとても懐かしい。そんな郷愁を呼ぶ佳句である。実際の出来事だとしても、むろん大人になった「おとうと」は覚えていないだろう。よくあることだが、そこがまた作者の郷愁をいっそう色濃いものにするのである。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


July 0672004

 ずつてくる甍の地獄蜀葵

                           竹中 宏

語は「蜀葵(たちあおい・立葵)」で夏。ふつう「葵」と言うと、この立葵を指すことが多い。茎が真っすぐに伸びるのが特長で、そういうことからか、「野心」「大望」などの花言葉もある。「甍(いらか)」は瓦葺きの屋根のこと。♪甍の波と雲の波……の、あれです。句の表面的な情景としては、瓦屋根の住宅の庭に「蜀葵」が何本か、すくすくと成長して例年のように花を咲かせているに過ぎない。たいがいの人は、この季節の風物詩として観賞し微笑を浮かべるだけだが、作者はちょっと違う。無邪気に天に向かって背を伸ばしている蜀葵の身に、何か不吉な予感を抱いてしまったのだ。この天真爛漫さは危ない、と。しっかりと頭上を見てみよ。何が見えるか。そうだ、甍だ。気がついていないだろうが、あの甍は時々刻々わずかながらも少しずつ「ずつて」きている。このままいくと、やがては甍が頭上から一気にずり落ちてくるんだ。君らの上にあるのは「甍の地獄」なのだぞ。とまあ、簡単に言えばそういうことで、むろん作者は甍の落下が現実化するなどとは思ってもいないのだけれど、あまりに無防備な蜀葵の姿に接して、逆に不安を感じてしまったというところか。黒いユーモアの句であるが、事象の表面だけからではとらえられない現代の様相の怖さを示唆した句でもある。そしてこの句はまた、木を見て森を見ない態の句が氾濫する俳句界への批評と受け取ることもできるだろう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)


July 0572004

 紫蘇畑を背にして父の墓ありぬ

                           神保千恵子

語は「紫蘇(しそ)」で夏。「墓がある」などの言い方ではなく「墓ありぬ」だから、作者ははじめて父の墓を訪れたのだ。実家とは遠く離れたところで暮らしているので、葬儀のときはともかく、納骨時には帰れなかったのだろう。ようやく時間が取れたので、父の墓に詣でることにした。どんな墓なのか、どんなところにどんなふうに建てられているのか。あれこれと思いを巡らしながら来てみると、「紫蘇畑を背にして」ひっそりとそれは建っていた。「背にして」はむろん拒絶の姿勢ではなく、単なる位置関係を示している。墓の前にはたとえば海が開けている(ちなみに、作者は新潟県出身)のかもしれず、あるいは何かが展望できるはずなのだが、あえて作者が墓の背景を詠んでいる点に注目しよう。それも名山名刹やモニュメントの類ではなくて、その土地ではさしてめずらしくもないであろう平凡な紫蘇畑である。が、作者の意識には、それがいかにも父に似つかわしく感じられたのだった。生前の父が、紫蘇畑を背にして立っている。そんな光景を作者は何度も目撃していたと言おうか、父がいちばん父らしくある風景として脳裏に刻まれていたにちがいない。どのような人柄だったのかは書かれていないけれど、読者にはその人の人柄までもが伝わってくるような句だと思う。青紫蘇にせよ赤紫蘇にせよ、煙るような独特の風合いの広がりを背に建つ墓の前から、作者はしばし去りがたい思いで佇んでいたことだろう。『あねもね』(1993)所収。(清水哲男)




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