選挙戦って何処でやってるの。ホントに我が家の近所には選挙カーが寄りつかない。




2004ソスN6ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2762004

 今さらに吉川英治明易し

                           大谷朱門

語は「明易し(あけやすし)」で夏、「短夜」に分類。国民的作家というにふさわしい小説家といえば、現代では司馬遼太郎、その前では吉川英治だろう。文学的評価はまちまちだが、読んだことがなくても、たいていの人が名前くらいは知っているという意味では、疑いなく国民的だった。吉川英治が、どんなに偉かったか。それを私は、中学時代の社会科見学で教えられた。級友の兄貴が勤めていた縁で、青梅市(東京)の精興舎という印刷会社に出かけた。精興舎は、岩波文庫を多数手がけていた有名印刷所だ。今でも、あるのかしらん。案内の人が、ひとしきり印刷の仕組みや工程を説明してから、最後にこう言ったのである。「私たちの会社では、諸先生がたの原稿をとても大事にしています。たとえぱ皆さんもお名前を良く知っている小説家、吉川英治先生。先生の原稿を一字一句正しく印刷するのはもちろんですが、たとえ明らかに間違っている文字が書かれていても、その間違った文字を特別にその通りにきちんと作って印刷しているのです」。「へーえ」と私は驚き、「吉川英治って、たいしたもんなんだなあ」と大いに感心した。それほどに偉いというかポピュラーな作家だったから、読書好きの人ならば一冊や二冊は持っていただろう。作者はおそらく気まぐれに古い吉川英治を「今さら」と思いつつも読みはじめたところ、つい引き込まれてしまい、気がついたら白々と明け初めてきたのである。苦笑しながらも「今さら」のように本の表紙を眺め直し、かつての吉川英治への思いを新たにしたことだろう。句に誘われて、吉川英治が読みたくなった。家の中を探してみたが、文庫本で持っていたはずの『新平家物語』は見つからず、かろうじて少年向きの名作『神州天馬侠』だけがあった。ま、これでもいいか。『接吻』(2001)所収。(清水哲男)


June 2662004

 高階や扇子たれかを待つうごき

                           大塚千光史

気なく見上げた「高階」の人。高層の団地かマンションあたりでのことだろう。高くて顔はよく見えないけれど、佇んでしきりに「扇子」を使っている。べつに訝しく思ったわけではないが、使い方にどこか苛々しているような「うごき」がある。ああそうか、きっと誰かを待っているんだなと納得した句だ。誰にでも日常的に、こんなふうに些細なシーンの意味を納得することはあるにしても、それを句に書きとめるのはなかなかに難しいだろう。上手いものだ、達者なものである。この場合、作者に詠まれた人は作者の目を意識してはいない。が、逆に他人の目を意識したときに、しばしば私たちは自分の「うごき(しぐさ)」でその人にメッセージを送る場合がある。訝しく思われるかもしれないという思いが、頼まれもしないのにそうさせるのだ。昨日の午後、マンションの出口のところに住人の主婦が何をするでもなくぽつんと立っていた。足音で私に気づいた彼女は、それまでの所在ない姿から一転し、盛んに首を伸ばしては遠くの十字路の方を見やりだしたのである。つまり、私はここで誰かを待っているのですよというメッセージを私に発信しはじめたわけだ。会釈して通りすぎようとしたときに、私たちの前には豆腐屋の小さな車がすうっと現れて止まったのだった。主婦が待っていたのは、これである。「遅いじゃないの」という弾むような彼女の声。なんだかアリバイが証明された人みたいな調子に聞こえて、可笑しかった。もしも句の「高階」の人が作者に気づいたとしたら、他にどんな「うごき」を加えだろうか。つい、そんなことにまで連想を伸ばしてしまった。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


June 2562004

 夕菅は胸の高さに遠き日も

                           川崎展宏

ういうわけか、「夕菅(ゆうすげ)」はほとんどの歳時記に載っていない。ほぼ全国的に分布しているというのに、何故だろうか。淡黄色の花。日光キスゲの仲間で、その名の通り夏の夕刻に開花し、朝にはしぼんでしまう。その風情、その花の色から、はかなさを感じさせる植物だ。昔の文学少年少女たちは、たいていが実物よりも先に、立原道造のソネット「ゆうすげびと」でこの花のことを知った。「悲しみではなかった日の流れる雲の下に/僕はあなたの口にする言葉をおぼえた/それはひとつの花の名であった/それは黄いろの淡いあわい花だった//僕はなんにも知つてはゐなかった/なにかを知りたく うつとりしてゐた/そしてときどき思ふのだが 一體なにを/だれを待ってゐるのだらうかと//昨日の風に鳴っていた 林を透いた青空に/かうばしい さびしい光のまんなかに/あの叢に 咲いていた・・・・そうしてけふもその花は//思いなしだが 悔いのように----/しかし僕は老いすぎた 若い身空で/あなたを悔いなく去らせたほどに!」。こうして何十年ぶりかで読み返してみると、失恋までをも美化しなければおさまらない詩人のナルシシズムを強く感じる。が、若さとはそういうものであるかもしれない。この詩を読んだころのことを思い出してみると、何の違和感も持たずに愛読できたのだから、私の若さもまた深くナルシシズムに浸っていたのだろう。句の作者はいま「夕菅」を眼前にして、やはり若き日への郷愁に誘われている。立原の詩が、すうっと胸をよぎったのかもしれない。「遠き日」への曰くいいがたい想いが、甘酸っぱくも蘇ってきた。「胸の高さに」の措辞は、実際の夕菅の丈と過去への想いの(いわば)丈とに掛けられているわけだが、少しもトリッキーな企みを感じさせないのは流石だ。美しい句だ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)

[ 読者より ]「夕菅」の載っている歳時記などとして、俳句の花(創元社)、季語秀句辞典(柏書房)、中村汀女監修・現代俳句歳時記(実業之日本社)、新日本大歳時記(講談社)をご教示いただきました。




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