2004N6句

June 0162004

 六月を奇麗な風の吹くことよ

                           正岡子規

書に「須磨」とある。したがって、句は明治二十八年七月下旬に、子規が須磨保養院で静養していたときのものだろう。つまり、新暦の「六月」ではない。旧暦から新暦に改暦されたのは、明治六年のことだ。詠まれた時点では二十年少々を経ているわけだが、人々にはまだ旧暦の感覚が根強く残っていたと思われる。戦後間もなくですら、私の田舎では旧暦の行事がいろいろと残っていたほどである。国が暦を換えたからといって、そう簡単に人々にしみついた感覚は変わるわけがない。「六月」と聞けば、大人たちには自然に「水無月」のことと受け取れたに違いない。ましてや、子規は慶応の生まれだ。須磨は海辺の土地だから、水無月ともなればさぞや暑かったろう。しかし、朝方だろうか。そんな土地にも、涼しい風の吹くときもある。それを「奇麗(きれい)な風」と言い止めたところに、斬新な響きがある。いかにも心地よげで、子規の体調の良さも感じられる。「綺麗」とは大ざっぱな言葉ではあるけれど、細やかな形容の言葉を使うよりも、吹く風の様子を大きく捉えることになって、かえってそれこそ心地が良い。蛇足ながら、この「綺麗」は江戸弁ないしは東京弁ではないかと、私は思ってきた。いまの若い人は別だが、関西辺りではあまり使われていなかったような気がする。関西では、口語として「美しい」を使うほうが普通ではなかったろうか。だとすれば、掲句の「綺麗」は都会的な感覚を生かした用法であり、同時代人にはちょっと格好のいい措辞と写っていたのかもしれない。高浜虚子選『子規句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


June 0262004

 脉のあがる手を合してよ無常鳥

                           井原西鶴

語は「無常鳥(ホトトギス・時鳥)」で夏。作者は三十四歳のとき(延宝3年・1675)に、二十五歳の妻と死に別れた。そのときに、一日で独吟千句を巻いて手向けたなかの一句だ。西鶴の句を読むには、いささかの知識や教養を要するので厄介だが、句の「無常鳥」も冥土とこの世とを行き来する鳥という『十王経』からの言い伝えを受けている。妻が病没したのは、折しもホトトギス鳴く初夏の候であった。あの世に飛んでいけるホトトギスよ、妻はこうして脉(みゃく)のあがる(切れる)手を懸命に合わせています。どうか、極楽浄土までの道のりが平穏でありますように見守ってやってください、よろしくお頼み申し上げます。と、悲嘆万感の思いがこもっている。速吟の一句とは思えない、しっとりとした情感の漂う哀悼句だ。この後すぐに西鶴は剃髪して僧形となったが、仏門に入ったのではなく、隠居したことを世間に周知せしめるためだったという。二人の間の三人の子供のうち二人は早死にし、残った娘ひとりは盲目であった。単行本になったら読もうと思っていて、実はまだ読んでいないのだが、いま富岡多恵子が文芸誌「群像」に西鶴のことを断続的に書き継いでいる。同時代人の芭蕉に比べると、西鶴については書く人が少ないのは残念である。もっともっと、現代人にも知られてよい人物とその仕事ではなかろうか。(清水哲男)


June 0362004

 えごの花大学生だ放つておけ

                           田中哲也

語は「えごの花」で夏。全国的に分布。ちょうどこの季節くらいに、白い可憐な花をたくさん咲かせる。よくわからないのだが、なんとなく気になってきた句だ。わからないのは、「大学生だ放つておけ」と言っている主体が不明だからである。むろんせんじ詰めれば作者の発語になるわけだけれど、句の上では「えごの花」の言と解すべきなのだろうか。花は高いところで咲いていて、いつも人の動きを見下している。折りから通りかかった若者のグループに、たとえば言い争っているとか道に迷っているらしいとか、何らかのトラブルを抱えている様子が見て取れた。心配顔で見ているうちに、彼らが大学生だとわかってきた。そこで「なあんだ、大学生なら放っておけ」と言い捨てたのだが、この言い方は現代の大学生の世間的な位置を示していて面白い。教養のある若者たちだから、傍が放っておいても自力で何とかするだろう。という信頼感の現われであると同時に、モラトリアム世代の呑気な連中だから、多少は痛い目にあっても知ったことかという軽侮の心理が同居しているからだ。戦前の「学士様ならお嫁にやろか」「末は博士か大臣か」と下世話にもてはやされた学生像とは、その是非は置くとして、大変な変わりようではある。掲句にそのような感慨は含まれていないが、現代の大学生一般の存在感の軽さをよく言い止めているのではなかろうか。「えごの花」の花期は短い。作者はそのうつろいやすさを、大学生像に投影しているのかもしれない。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)


June 0462004

 線路越えつつ飯饐る匂ひせり

                           加倉井秋を

語は「飯饐る(めしすえる)」で夏。いまは冷蔵庫の普及でこういうこともほとんどなくなったが、昔の夏場の「飯」の保存は大変だった。一晩置いておくと汗をかいてしまい、匂いを放つようになる。この状態を越えると腐敗がはじまってしまうので、飯びつにフキンをかけたり飯笊を使ったり、はたまた井戸に吊るしたりして対策を講じたものだ。句は、郊外の小さな踏切での情景だろう。無人踏切かもしれない。周辺には、夏草が茂り放題だ。そんな「線路」を越えていると、どこからか飯の据えた匂いが漂ってきた。およそ生活臭とは無縁の場所だから、おやっと思うと同時に、何かほっとするものを感じたと言うのである。郷愁というほど大袈裟な気持ちではないが、それに通じる淡い感情が作者の胸をすっと横切った。夏の日の微妙にして微細な心の綾を描いていて、それこそ郷愁を誘われる読者も多いだろう。余談になるが、先日CDで柳家小三治のトークライブなるものを聴いていたら、なかで飯をていねいに洗って食べる人の話が出てきた。むろん、饐えているからである。昔の話ではない、れっきとした現代の話だ。話のタネは、彼が借りている駐車場に住みついたホームレスの男のあれこれだった。アッと思った。もともとフリートークの上手い噺家だが、この話は抜群の出来である。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)他に所載。(清水哲男)


June 0562004

 昼顔につき合ひ人を待つでなく

                           林 朋子

語は「昼顔」で夏。野山や路傍、どこにでも咲いている。薄紅の花の色は可憐だが、あまりにも咲きすぎるせいか、珍重はされないようだ。句は、わざわざそんな「昼顔」につき合って、誰を待つでもなく道端に佇んでいる。といっても実際に路傍に立っているのではなくて、夏の午後のけだるい時間をシンボリックに詠んだのだろう。なるほど、けだるさには昼顔がよく似合う。この句を読んで、ちょっと思うことがあった。実景ではないと読んだけれど、仮に実景だとすれば、作者以外にはどんな光景に写るだろうかということだ。想像するだけで、なんとなく奇異な様子に見えるのではないだろうか。まさか昼顔につき合っているとは知らないから、道端に人がひとり何をするでもなく長い時間立っていれば、ついつい変に思ってしまうのが人情だからである。最近よく散歩をするようになって気がついたのは、いかにこの人情なるものが散歩者の気分を害するかということだった。天下の往来である。走ろうが立ち止まろうが当人の勝手のはずが、そうじゃない。歩き疲れてしばし佇んでいるだけで、必ずどこからか猜疑という人情のまなざしが飛んでくる。立ち話をしている主婦たちの目が、ちらちらとこちらを伺っていたりする。そんなときには仕方がないから、しきりに腕時計を見るふりをすると、多少は猜疑の目も和らぐようだ。携帯電話は持っていないが、こんなときにはさぞかし便利だろう。ともかく、人通りのない山道ででもないかぎり、人は道で一分と動かずに立っていることはできない。堂々と立ち止まれるのは、ゆいいつ信号のある交差点だけである。嘘だと思ったら、どうかお試しあれ。『眩草』(2002)所収。(清水哲男)


June 0662004

 水郷の水の暗さも梅雨に入る

                           井沢正江

語は「梅雨に入る(入梅)」で夏。「水郷」は、大河川の中・下流の低湿な三角州地域で、水路網が発達し、舟による交通が発達している地域。利根川、信濃川、木曽川、筑後川などの中・下流地方、作者はたしか関東の人だから、潮来あたりの光景だろうか。晴れていれば水面に光が反射して明るい地方だけに、今日は水も暗く、よけいに周辺も暗く感じられると言うのだ。いかにも入梅らしい雰囲気を大きく捉えていて、見事である。ただし、句の情景に雨は降っていない。「えっ、入梅なのに」と訝しく思うむきもあろうが、降っているのならば、わざわざ水の暗さを持ち出すこともないだろう。いまにも雨が来そうだ、という趣きなのである。俳句で「入梅」というときには、多く暦の上でのそれを指すので、実際の降雨とは関係がない。立春から数えて百三十五日目の日のことであり、八十八日目を八十八夜と言うのと同じ数え方だ。ちなみに、今年の暦の上での「入梅」は六月十日にあたっている。なぜ実際に梅雨に入るかどうかもわからないのに暦に設定したのかと言えば、農事上の必要からであった。むろん天気予報などはなかった時代だから、長い雨期に入るのがいつごろからなのか、おおよさの目安を知って、農作業を進める必要があったからである。長雨による水害への備えも、大事な仕事だった。現代では「入梅」イコール「気象的な入梅」とする句も多いが、古い句を読むときには、とくにこの点には注意しなければならない。『合本・俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


June 0762004

 薔薇園に外来講師農学部

                           清水貴久彦

語は「薔薇」で夏。文字面を見ているだけで、気持ちが明るくなる。薔薇園は、農学部の実習のためにあるのだろう。他の学部であれば教室に迎えるところを、そこは農学部だから、実習園に迎えたわけだ。即「作品」を見てもらうということで、学生たちも緊張しているが、即「評価」を求められる格好になった講師の側も緊張している。他流試合と言えば大袈裟かもしれないが、学生と外来講師との関係にはそのようなところがある。とかく単調になりがちな日々の授業だけに、たまさかのこの緊張感は心地よい。句にそんなことは書いてないけれども、実習園の雰囲気はそういうことであり、通りがかりに見かけて微笑している作者の心持ちはよく理解できる。いつもとは違う光りを帯びた薔薇園が、清々しくそこにあった。なお、作者は岐阜大学医学部教授。外来講師で思い出したが、私の学生時代に、木庭一郎明大教授を迎えたことがある。筆名は中村光夫。著名な文芸評論家として知っていたし、ミーハー心も手伝って、緊張しつつもわくわくしながら授業に出た。が、結果は失礼ながら失望落胆。失望は、いきなり木庭先生が出欠をとりはじめたこと。当時出欠をとる先生は稀だったから、子供扱いを受けたようで不愉快だった。落胆は、講義のテーマが二葉亭四迷はよいとして、先生の講義というのが同名の自著をただ棒読みにするだけだったこと。運の悪いことに、私は既にその本を読んでしまっていた。毎回出欠をとられながら、既知の中身を棒読みされたのではたまらない。さすがに二、三回で、閉口して止めてしまった。考えようによっては、ずいぶんと呑気で良き時代だったとも言えるのだけれど。『微苦笑』(2000)所収。(清水哲男)


June 0862004

 恍惚と蟻に食はれて家斃る

                           冨田拓也

語は「蟻」で夏。常識的にはシロアリだろうが、イメージ主体の句だから、むしろ普通の蟻と読んだほうが面白いかもしれない。食われて斃(たお)れたのは、家だ。だが、斃れたのは実は人間でもある。「恍惚として」の修辞が、そのことを告げている。暗いユーモア、ないしは自虐の悦楽とでも言えばよいのか。斃れることがわかってはいても、進行していく愉楽の誘惑を断ちきれない。そういうところが、私たち人間には、確かにあるのだ。傍からすればみじめな結果と見えようが、当人にはいわば豪奢な滅びの喜びと思える一瞬が……。そうした黒い感受性の上に想像を広げるのは自由詩の得意とするところで、俳句ではなかなかに難しい。俳句が短いこともあるけれど、もう一つ、俳句は元来が座の文芸だからである。たとえひとりで家に籠って詠むとしても、根本的に座と切れるわけにはいかないのだ。このときに、座は体面を重んじる。体面と言っても、いわゆる世間体とはちょっと違う。世間体も含むが、座を形成している社会的なコンセンサスを崩さないところに、体面尊重の必要が生じてくるということだ。したがって、ひとり恍惚としていては体面から外れてしまう。つまり、座を崩すことになる。その意味で、掲句は俳句としてきわめて危うい場所に立っていると読めた。表面的には体面を保っているのだが、真意は単なる家の倒壊を越えた、更に先の地点に置かれているとしか考えられないからだ。その地点は、明らかに体面などどうでもよろしい場所だからである。作者は二十四歳。第一回芝不器男新人賞受賞句集『青空を欺くために雨は降る』(2004)所収。(清水哲男)


June 0962004

 汗ばむや桜の頃のいい話

                           清水径子

語は「汗ばむ」で夏。「桜」は「桜の頃」と、もはや過ぎ去った季節だから、この場合は季語ではない。試験に出すと、うっかりして間違える生徒がいそうだ。そしてこの「桜の季節」は、遠い過去のそれだろう。ということを、「いい話」が暗示している。「いい話」とは、むろん儲け話や美談の類いではない。自分に関わる、ちょっと秘密にしておきたい出来事のことである。出来事があった当時は「いい事」だったのだけれど、それが年月を経るにつれて「話」に変わってきたというわけだ。桜の頃の話だから、きっと浮き浮きするような出来事だったに違いない。若き日の恋の淡い思い出だろうか。ふっとその「いい話」を思い出して、青春のあの日あの時に戻ったように、自然に気持ちも身体も汗ばんできた。また掲句は、「でも、この話のことはナイショですからね」とも言っていて、いかにも女性らしい感性をのぞかせている。男には、逆立ちしても詠めっこない句だ。粗略かもしれないが、私の観察では、女性はいつまでもロマンチストであると同時にリアリストであることができる。男の場合には、たいていが猛烈なロマンチストとして出発はするが、いつの頃からかミもフタもないリアリストに転じてしまうようだ。夢と現実を共存させることができないのである。だから男には、たまに「いい事」があったとしても、ほとんどが「いい話」としては残らない理屈だ。『夢殻』(1994)所収。(清水哲男)


June 1062004

 幾たりか我を過ぎゆき亦も夏

                           矢島渚男

分と一緒に並んで歩いていたか、あるいは少し後ろから来ていたか。気がつくと、そのうちの「幾たりか」は「我を過ぎゆく」ようにして、遠いところへ行ってしまっていた。同世代や年下の友人知己に死なれるのは、ことのほか辛い。年齢を重ねていくほどに、無情にもそういうことが起きてくる。万物の生命の炎が燃え盛る夏。作者は火が消えるように過ぎて行った人たちのことを思い出して、半ば茫然としつつ「亦(また)も夏」とつぶやいている。ここにあるのは、激情的な悲嘆でもなければ詠嘆でもない。いわば静謐な悲しみが、真っ赤な太陽の下を透明な水のように流れ過ぎてゆく。私にも、そうした「幾たりか」がある。そのうちの一人のことをふと思い出すことがあると、脈絡もなく他の何人かのことも思い出されてくる。知り合った場所も年代も違うのに、彼ら「幾たりか」は不思議なことにいつも共通の背景の前にいるかのようだ。そんなことはないのに、彼らがみな互いに友人であったかのようにも思えてくる。故人を思い出すとは、夢を見ることに似ているのだろうか。「半ば茫然」と作者の気持ちを解したのは、そういう気持ちからだ。そして、「亦も夏」。ここに他のどんな季節を置くよりも、生き残った者の悲しみが真っすぐに読者に近づいてくる。俳誌「梟」(第157号・2004年6月刊)所載。(清水哲男)


June 1162004

 一生の楽しきころのソーダ水

                           富安風生

語は「ソーダ水」で夏。大正の頃から使われるようになった季語という。ラムネやサイダーとは違って、どういうわけか男はあまりソーダ水を飲まない。甘みが濃いことも一因だろうが、それよりも見かけが少女趣味的だからだろうか。いい年をした男が、ひとりでソーダ水を飲んでいる図はサマになるとは言いがたい。だからちょくちょく飲んだとすれば、句にあるように「一生の楽しきころ」のことだろう。まだ小さかった子供のころともとれるが、この場合は青春期と解しておきたい。女性とつきあってのソーダ水ならば、微笑ましい図となる。喫茶店でソーダ水を前にした若い男女の姿を目撃して、作者はあのころがいちばん楽しかったなあと若き日を懐古しているのだ。むろん、味などは覚えてはいない。ただそのころの甘酸っぱい思いがふっとよみがえり、やがてその淡い思いはほろ苦さに変わっていく。年をとるとは、そういうことでもある。ある程度の年齢に達した人ならば、この句に触れて、では自分の楽しかった時代はいつ頃のことだったかと想起しようとするだろう。私もあれこれ考えてみて、無粋な話だが、青春期よりも子供の頃という結論に達した。ソーダ水の存在すら知らなかった頃。赤貧洗うがごとしの暮らしだったけれど、力いっぱい全身で生きていたような感じがするからだ。その後の人生は、あの頃の付録みたいな気さえしてくる。強いて当時の思い出の飲み物をあげるとすれば、砂糖水くらいかなあ。「砂糖水まぜればけぶる月日かな」(岡本眸)。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1262004

 鶏小屋の近くに吊す水着かな

                           藺草慶子

し早いが、海辺の民宿の図を。夕暮れ時だ。泳ぎ終えて民宿に引き揚げ、洗った水着を干している。いや、きちんと干すのではなく、ただ「吊す」だけのことだ。そして、そこは「鶏小屋」の近くだった。景としてはこれで全てだが、言外にある心理状態はそんなに単純ではない。図式化すれば、水着が非日常的な生活の側面を表しているのに対して、鶏小屋は反対に生活の日常的な部分を示している。つまり作者は何の気なしに非日常を日常の場所に持ち込んでしまったわけで、こういうときに人の心は微妙に揺れるのである。民宿を営んでいるその家の、夏場以外の日常のありようをふっとかいま見てしまったような、あるいは見てはいけないものを見てしまったような……。この鶏小屋は、客に新鮮な卵を提供するためにあるのではなく、家族の食卓のためにあるのだ。鶏小屋独特のむっとするような臭いの傍で、こういうところに遊びに来ている自分が、ちらりと申し訳ないような気持ちになったかもしれない。そっちは商売なんだし、こっちは客なんだから。リゾートホテルならそうも言えるが、民宿ではこの理屈は通しにくいのである。鶏小屋の存在を知ってしまった以上、宿の人との会話にも影響が出てくる。私も何度も民宿の厄介になったことがあるけれど、鶏小屋に当たったことはないにせよ、その家の思わぬ日常性に出会わなかったことはない。とくに小さな子供がいたりすると、日常性の露出度は高くなるから、苦手であった。掲句は、そんな民宿のありようをシンプルな取り合わせで捉えていて、その巧みさに膝を打ちたい思いで読んだ。『遠き木』(2003)所収。(清水哲男)


June 1362004

 座席下に救命胴衣五月晴

                           津田清子

は「土佐日記」と題された連作の一句目。梅雨最中、案じていた天候が回復して青空が広がった。客室乗務員の説明通りに、座席の下には救命胴衣もちゃんと備わっている。備えあれば憂い無し、これで安心、幸先が良い。旅立ちの喜びが、素直に素朴に伝わってくる。二句目に「青杉山土佐の背骨のありありと」とあるので、船ではなく飛行機の旅と読むほうがよいだろうか。ただ臆病な私だけの感じ方かと思うが、飛行機にせよ船にせよ、乗るとすぐに救命胴衣のことを説明されると、途端に出発の喜びに翳りがさしてしまう。それまでは忘れていたことだけに、イヤな感じになる。というのも、救命胴衣が用意されていることと着用の仕方を教えられても、実際に触って試すことは禁じられているからだ。あれはいったい、どうしてなのだろうか。いざという場合に、半ばパニック状態のなかで冷静に説明を思い出して着用などできるものだろうか。到底、その自信はない。調べてみると、航空事故調査委員会が1982年に日航のJA8061型機が羽田沖に墜落した事故について、こんな報告書(建議書)を出していた。「JA8061の事故の場合、救命胴衣の所在場所が分からない乗客、救命胴衣の装着方法が分からなかった乗客が見受けられた。大型旅客機であっても、緊急着水した場合、海面に機体が浮いている時間は短く、一刻も早く救命胴衣を格納場所から取り出して、迅速かつ的確に装着し、適切な時機にこれを膨張させることが必要である。現在では、航空機内において客室乗務員が救命胴衣の装着デモンストレーションを行い、その格納場所を指示するなどしており、説明パンフレット等も座席後面のポケットの中に入っているが、JA8061の事故時の状況を省みるとき、救命胴衣に係る情報の乗客へのより一層の周知の方法について検討する必要がある」。その後どういうことが検討されたのかは知らないが、何かが変わったとは思えない。周知徹底は簡単なのに……。ただ「試着」させてくれさえすれば、それでよいのだからである。「俳句研究」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


June 1462004

 到着の遅れてをられ夏料理

                           原田 暹

語は「夏料理」。見た目にも涼しく、さっぱりした味の夏の料理の総称だ。特別な料理でなくても、たとえば冷奴や胡瓜もみなども含む。が、掲句の場合には「特別」な料理だろう。ままありがちだが、宴会の開始時間を過ぎても主賓がなかなか姿を現さない。句の主賓はかつての恩師か、会社を退職した元上司といったところか。みんなが集まって、もうすっかり料理も運ばれてきているというのに、招待した主賓を欠いては会をはじめるわけにもいかず、とくに幹事役は困惑する。ちょっと「遅れてをられ」るようで……などと、誰にもわかりきった言い訳をしながら、入り口の方をちらちらうかがったりしている。なにしろ料理が夏向きだけに、時間が経つにつれて冷やしたものの味は落ちてしまう。せっかく美しく添えられた氷片も、無惨に溶けていく。ビールも生温くなってくる。辛抱たまらず、一人が「そろそろはじめようか」と言い、「そうもいかないだろう」ともう一人が言う。この句の面白いところは、時間の経過とともに「遅れてをられ」の敬語に込められるニュアンスが変わっていくところだ。予定時間の十分後くらいまでだと、この敬語には主賓を心配する色合いがまだ濃いのだが、二十分後ともなると苛立ちの念が濃くなり、それ以上だと徐々に怒気が込められ、最後には呆れたと言わんばかりのニュアンスに転化してしまう。句のシーンは、いったい何分後くらいのことなのだろうか。そう想像してみると、待ちくたびれている人々には申し訳ないが、だんだん可笑しさがこみ上げてくる。臨場感あふれるとは、こういう句を指して言う。『天下』(1998)所収(清水哲男)


June 1562004

 俺に眼ン付けたなと蛇の大八が

                           土橋石楠花

語は「蛇の大八」。と言われても、何のことやら……。作者は出雲の人で、表題に「蛇の大八(まむし草)」とあるから、出雲地方では「まむし草」をそう呼んでいるのだろう。どことなく愛敬のある呼び名だ。季語として載せている歳時記は少ないし、載せていても春季に分類している。が、いろいろ調べてみると、花期は五月から六月が平均的なようなので、当歳時記ではあえて夏に分類しておく。「眼ン付けたな」は「ガンつけたな」だ。山道で、思わずも目が合っちゃったのである。咄嗟に、まむしが鎌首をもたげたような形の草の吐きかけそうなセリフではないか。しまったと思っても、もう遅いのだ。そんな一瞬の心のざわめきが、的確に出ている。こうしたざっくばらんな調子を持ち込むのがこの人の持ち味の一つで、いかにも原石鼎門らしい血脈を感じる。こういう句が他にももっと詠まれると楽しいのだが、付け焼き刃では無頼は詠めない。世間にバンと居直る度胸がなければ、男伊達もままならぬ。作者はこの句の載った俳誌「鹿火屋」(2004年6月号)に散文「がんばれ、鹿火屋」を書いていて、言いにくいことをずばりと言っている。「結社誌新人賞作家の俳壇への売り出しもビジネスの一つである。ビジネスといえば文芸誌にとっては禁句と言う人もいるが、結社誌の維持、継続発展は昨今の世情に於ての経営には不可欠の事である。(中略)俳人協会の総会での発表によると会員の平均年齢は七十三歳、二、三年に一歳ずつのびている老人俳壇では、その結社に有望な新人を傘下においているところは、その勢力をのばし誌友数も自然に増えているのが現状である」。ひるがえって我が結社の「新人」たちはどうかと見ていくのが文章の本旨で、八十七歳の作者の直言は心地よい。これまた、気合いの入った男伊達の一文だ。「がんばれ、鹿火屋」と、唱和したくなる。(清水哲男)


June 1662004

 巻尺を伸ばしてゆけば源五郎

                           波多野爽波

のう「大八」、きょう「源五郎」(笑)。夏の季語だ。甲虫の仲間の小さな黒光りした虫で、水中を素早く泳ぎ回る。平井照敏の編纂した『新歳時記』(河出文庫)に、「子どもの頃の男の子の心を引きつけた虫」とあるように、愛敬があって、少しも気持ち悪くない。捕まえることはしなかったが、見ていて飽きない虫だった。何かの長さを測るために作者が「巻尺(まきじゃく)」を伸ばしていったら、その先に此奴がいたと言うのである。べつに人生の一大事件でもないし、いたからといって吃驚したのでもなければ作業を邪魔されたわけでもない。つまり、作者には何の関係もない虫が泳いでいただけで、それをわざわざ詠んだところに可笑しさがある。また単なる可笑しさだけではなく、句の奥のほうに戸外の作業で汗ばんでいる作者の姿がかいま見えるところに、得も言えぬ味わいがある。源五郎はスイーッスイーッと涼しい顔だが、作者は巻尺を伸ばしているくらいだから極めて慎重に事を進めている真顔なのだ。対比の妙と評すると月並みだが、とにかく爽波という人は選球眼が抜群に良かった。現役の野球選手に例えれば、巨人のペタジーニ選手みたいだ。絶対と言ってよいほどに、まずボールには手を出さないからである。巻尺を伸ばした先には、ぽつりと源五郎だけがいたわけじゃない。まずは池か小川などの水があり水辺があるわけで、そこには他の多くのものの存在がある。その多くのものの中から、何を拾い上げるのか。このセンスが俳人の勝負の分かれ目であり、爽波はほとんど拾い誤ったことはない。それは爽波が、いくつかの素材を瞬間的に接着することに俳句の面白さを見出していたからだろう。つまり球を打つ瞬間こそが一切で、そのボールがどこへ飛ぼうと、俺の知ったことじゃないという姿勢があった。その瞬間表現に、いままで見えなかった何かが見えてくる。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


June 1762004

 噴水の背丈を決める会議かな

                           鳥居真里子

語は「噴水」で夏。思わずクスリと笑いかけて、いや待てよ、これは大真面目な会議なんだなと思い直した。噴水の背丈をどれくらいにするかは、設計者の意図もあるだろうが、水不足などの外的条件も考慮しなければならない。会議を開いて、背丈を変更することも現実的にあり得ることだ。でも、なんとなく可笑しい。大の大人が何人も集まって、ああでもないこうでもないと長時間やり合う。傍目にはよほど深刻な問題を討議しているのかと見えるが、中味は何のことはない、噴水の背丈を何センチ縮めるかといった「問題」だった。なあんだ、というわけである。今度噴水の前を通りかかったら、この句を思い出してみたい。きっとじわりと、可笑しさがこみ上げてくるだろう。句の例に限らず、世の中にはどう転んでも、誰のためにもならないような会議が多すぎる。むろん、出席者にとってもだ。それも仕事のうちと割り切れればよいのだが、こんな会議に出るために生まれてきたんじゃねえやと、腹立たしくなる会議は私も何度も経験した。噴水の丈を決める会議のほうが、まだマシというような……。で、いつしか猛烈な会議嫌いになり、よほどの議題でもないかぎり逃げ回っていた時期もあった。俗に会議の多い会社はつぶれると言われたりするが、ある程度は真実を突いている言葉だろう。どうしようどうしようと集まること自体が、既に組織的動脈硬化が起きている証だからだ。が、掲句の舞台は、役所の公園管理課みたいなところだろうか。だったらつぶれる気遣いはないわけで、それだけ余計に始末が悪いと言える。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


June 1862004

 アイスクリームおいしくポプラうつくしく

                           京極杞陽

語は「アイスクリーム(氷菓)」で夏。作者は京極子爵家の嫡流で、世が世であればお殿様であった。だからかどうなのか、この人の多くの句にはおっとりとしたところがある。一方で庶民の文芸である俳句は、技術的にはかなりトリッキーであり抜け目がない。生き馬の目を抜くような企みがある。おっとりと構えていると、置いていかれてしまいそうだ。だが、作者はそれを十分に承知の上で、終生さして俳句技術にとらわれることなく、おっとりを貫き通した俳人である。それも俳句様式への反逆というのではなく、ごく自然な気持ちで詠んでいるうちに、おのずとスタイルが定まったというふうだ。掲句などは典型で、どこにも企みは見られない。小学生の句かと見まがうほどに素直な詠みぶりだが、しかしやはり大人ならではの味がする。「アイスクリームおいしく」までは小学生でも、ポプラへと目を移す余裕は子供にはないからだ。しかも「おいしく」「うつくしく」と重ねて、アイスクリームとポプラがお互いを引き立て合っている。相乗効果で、ますます「おいしく」「うつくしく」感じられてくる。まことにおいしそうで美しそうではないか。こうしたいわば生の言葉を句に落ち着かせるためには、技術云々ではなくて、まずは作者の本心が生でなければ不可能だろう。世辞や社交辞令ではない本当の気持ちがなければ、生の言葉は浮いてしまう。腰がふらついてしまう。素材対象への素直で自然な没入。悲しいかな、私などにはそれがなかなかできないから、怖くて生の言葉は使えない。掲句を見つめていて、そういうことがよくわかった。『新俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1962004

 黒々とひとは雨具を桜桃忌

                           石川桂郎

十九歳の太宰治が女性と玉川上水で死んだのは、1948年(昭和二十三年)六月。入水したのは13日で、19日は遺体が見つかった日である。戦後三年目のことだった。当時の玉川上水は、いまと違って深くて流れも早く、土地の人は人喰い川と呼んでいたという。事実、都心から遠足に来た小学生が転落して溺れ、助けようとした教師が死んだ事件もあった。その先生の慰霊碑は、いまでも上水畔に見ることができる。句は桜桃忌が梅雨の最中であることを踏まえ、かつ戦後の暗鬱な世相をダブらせて詠まれている。太宰文学の暗さに、思いを馳せているのはもちろんだ。「黒々と」が、まことに骨太くそれを告げていて、頭を垂れた人々が戦後という雨期を影のように歩いてゆく姿が浮かぶ。このとき私は十歳で、遠く山口県の新聞で知った。当時の村では新聞の宅配はなく、すべての新聞は村役場まで届く。それを購読者は役場まで取りにいったものだが、私は毎日学校の帰りに寄って家の分を持ち帰っていた。そんなわけで、新聞はその日の日付のものではない。二日遅れか、あるいは三日遅れだったかの「朝日新聞」だった。小学生だったので、私が読めたのは漫画とスポーツ欄くらいだったけれど、太宰の入水のようなビッグ・ニュースだと大きく報じられたから、紙面にはタダゴトではない雰囲気が漂っていて、それで覚えているのだろう。他に紙面でよく覚えているは、同じ年の一月に起きた帝銀事件と、1950年(昭和二十五年)九月の伊藤律会見記だ。後者は三日後に記者のでっちあげとわかり、世間が騒然となった偽スクープ記事だった。日本共産党の大物・伊藤律はレッドパージで地下潜航中であったが、見出しは「姿を現した伊藤律氏 本社記者宝塚山中で問答」「徳田(球一)氏は知らない 月光の下 やつれた顔」というもの。縮刷版のこの日の社会面の中央部分は、いまでも削除されたまま白紙になっている。『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


June 2062004

 恋人とポンポンダリアまでの道

                           坪内稔典

語は「(ポンポン)ダリア」で夏。英語のダリア名「Pompon」から来た名前だと言う。そんなに存在感のあるほうではない花だけど、よく見ると可憐で可愛らしい。しかし句の作者は、実物のポンポンダリアがどんな花かという知識を、さして読者に要求してはいないと思う。知っているにこしたことはない、という程度だ。というのも、句では「ポンポンダリア」の「ポンポン」が、ほとんど擬態語のように使われているからだ。恋人と並んで歩いている気分が「ポンポン」と弾むようなのであって、実物の花の様子は二の次という感じを受ける。だから、歩いてゆく先の道に実際に咲いていなくても構わない。とにかく、楽しくって「ポンポン」、わくわくして「ポンポン」なのである。そしてこの恋人同士は、ほとんど仲良しこよしみたいな関係で、セクシュアルな生臭さというものが一切ない。「ポンポン」が効いているからだ。二人はロウティーンくらいの年齢かとも思えるが、大人の恋人同士でも明るく軽い雰囲気で歩いていれば、やはりそれも「ポンポン」気分と言うべきか。いずれにしても、花の名前を擬態語に転化させて、人の気持ちの形容に使ったところが句のミソであり、楽しさである。この方法を応用すれば、たとえば「ぺんぺん草」だとか「きちきちバッタ」だとか、更には「ハリハリ漬け」なんかも、面白い句になりそうだ。いや、きっともうどこかの誰かが既に試みているに違いない。どんな具合に仕上がったのだろうか、読んでみたいな。『坪内稔典句集』(2003・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


June 2162004

 どしゃぶりと紛れぬていに滴れり

                           安東次男

語は「滴り」で夏。崖や岩、苔などを伝わってしたたり落ちる水滴のこと。雨によるものではなく、地表から滲み出た水のしたたりだ。夏場には、いかにも涼しげである。実景句と読めば、作者は山中の人だ。折悪しく雨降りとなり、それもどしゃぶりになってきた。そこで、しばし岩陰か、あるいは四阿(あずまや)のようなところに避難している。いずれにしても、大きな岩肌の見える場所だ。車軸を流すような雨のなかで、岩肌も水を走らせているのだが、よくよく見ると、そこには雨水の流れとははっきり違う滴りも混じっている。岩陰の苔が、常と変わらぬゆっくりとしたテンポで水滴を落しているのかもしれない。すなわち「どしゃぶりと紛れぬてい」で、滴りがいわば自己を主張している図である。観察力の繊細さが光る句と言えるだろう。が、一方で想像句として読んでも面白い。作者はたとえば書斎などの室内にいて、外は猛烈な雨である。ふと、かつて訪れて印象深かった山中での滴りの光景を思い出した。こんな雨があの山に降っているとしても、あれらの滴りは「紛れぬてい」で悠然と自己のペースを守りつづけているにちがいない。あくまでも凛とした山中の気配が、眼前に蘇ってくるのである。ところで「どしゃぶり」といえば、英語では「It rains cats and dogs.」と言うのだと、昔の教室で習った。愉快な表現だなとすぐに覚えてしまったのだけれど、しかし今日に至るまで、一度もこれを使った生きた英文にお目にかかったことがない。どうやら相当に古くさい言い方らしいのだが、使われた実例をご存知の方がおられたら、コンテクストも合わせて、ぜひともご教示いただきたい。『流』(1996・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


June 2262004

 家庭医学一巻母の曝書

                           須原和男

語は「曝書(ばくしょ)」で夏。梅雨が終わると、昔は多くの家で虫干し(むしぼし)をした。衣類などを陰干しして湿気を取り、黴や虫の害を防ぐためだ。このうち、書物を表の風に当てることを「曝書」と言う。生活環境の変化から、虫干しの光景も、いまではさっぱり見かけなくなった。句は、作者少年期の思い出だろうか。たくさんの本が並んでいるなかで、母の本と言えるものはたった一冊の「家庭医学」書であることに気がついたのだ。我が家にもあったけれど、病状に応じて原因と簡単な対処法が書かれていた。私が高熱を発したりすると、母がよく開いていた。分厚くて真っ赤な表紙の本だったことを覚えている。それが母親の唯一の本……。といっても、結局これは家族みんなのためにある本なのであって、そのことを思い出すと胸の奥がちくりと疼くのである。その疼きは、字足らずの下五に込められている。私の母は女学校出だが、それでも本らしい本は数冊くらいしか持っていなかった。祖母のことを思い出しても、本を読んでいる姿は見たことがない。昔の主婦は本など読んでいる時間はあまりなかったし、社会的にも女性の読書はうとまれる環境にあった。だから明治や大正生まれの女性のほとんどは、作者の母親と同様に、蔵書と言えるようなものの持ち合わせはないのである。本を読むような時間があったら、家族のために働くことがいくらでもあった。そんな時代の女性の社会的家庭的位置のありようを、掲句は曝書という意外な視点から静かに差しだしてみせている。そんなに遠くはない時代の話である。『式根』(2002)所収。(清水哲男)


June 2362004

 母衣蚊帳の上に鳴りだすオルゴール

                           山本洋子

語は「母衣(ほろ)蚊帳」で夏。「蚊帳」に分類。そのものの存在は知っていても、はて何と言う名前のものなのか。知らないで、時々困ることがある。文芸誌の編集者時代に、河野多恵子から電車の車内に立っている金属製の棒、あれを何と呼ぶのかと尋ねられて絶句したことがあった。後でいろいろな人に聞いてみると、どうやら「握り棒」と言うらしいのだが、本当かどうかはいまだに確かめていない。雑誌「俳句」(2004年6月号)の宇多喜代子「古季語と遊ぶ」を読んでいたら、掲句が載っていた。そうだったのかと、思わず膝を打った。我が家にもあって良く知っていたということは、私や弟が使ったことになるわけだ。あの赤ん坊の昼寝のときなどに、身体にかぶせる小さな蚊帳のことを何と言うのか。いまのいままで、私は知らずにいたのである。現代では蚊帳一般が姿を消しているので、知らなくてもどうということはないけれど、気にはなっていた。言われてみれば、たしかにあの蚊帳は「ホロ(幌)」のような形をしている。それで「母衣蚊帳」なのかと、妙に感心してしまったのだった。句意は明瞭で、夏の午後に赤ちゃんが寝ている光景だ。突然、上に吊ってあるオルゴールが鳴りはじめた。作者ははっとして赤ちゃんを見つめたのだが、相変わらずすやすやと眠っている。そんな微笑ましい日常の一齣である。ところでもう一つ、この「オルゴール」も本当は何と言うのかを知らないままにきた。音源はたしかにオルゴールだろうが、いろいろカラフルな飾りも着いていて、メリーゴーラウンドみたいにくるくる回る仕掛けだ。赤ちゃん用だから、なんとなくガラガラのような単純な名前がついていそうな気がする。が、一度もあの名前を具体的に呼んでいるのを聞いたことがない。玩具店で聞けば、わかるだろうか。業界用語でもよいから、知りたいものだ。(清水哲男)


June 2462004

 屋根一つ一つに驟雨山を下り

                           廣瀬直人

語は「驟雨(しゅうう)」で夏。「夕立」に分類。山の斜面に、点々と家が建っている。そこへ、頂上の方からにわかに激しい雨が降ってきた。見る間に雨は「山を下り」てきて、さっきまで明るかった風景全体が墨絵の世界のように色を失う。雷も鳴っているだろう。夏の山国ではよく見かける光景だが、雨が一戸も外さず一つ一つの屋根を叩いて下りてきたという措辞は、言い得て妙だ。一見当たり前のような描写だが、このように言い止めることで雨の激しさが表現され、同時に山国の光景が現前され、句に力強さを与えている。山国に育った私としては、この的確さに唸らされた。まさに実感的に、この通りなのである。実感といえば、こうした自然の荒々しさを前にすると、人間というものはお互いに寄り添って生きていることを、いまさらのように感じさせられてしまう。「屋根一つ一つ」の下には、平素はさして付き合いのない人たちもいるし、なかにはムシの好かない奴もいたりする。が、ひとたび激甚の風雨来たれば、そんなことはどうでもよいことに思えてくる。「屋根一つ一つ」を順番に余さず叩く雨そのものが、人が身を寄せ合って生きている光景をあからさまに浮かび上がらせるからだ。驟雨は、短時間で止んでしまう。やがてまた日がパッと射してきた時に、私たちの心が以前にも増して晴れやかになるのは、単に厄介な自然現象が通り過ぎて安堵したということからだけではない。短時間の雨の間に、周囲に具体的に人がいるかいないかには関係なく、私たちのなかには他人に対する親和の心が芽生えているからだと思う。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


June 2562004

 夕菅は胸の高さに遠き日も

                           川崎展宏

ういうわけか、「夕菅(ゆうすげ)」はほとんどの歳時記に載っていない。ほぼ全国的に分布しているというのに、何故だろうか。淡黄色の花。日光キスゲの仲間で、その名の通り夏の夕刻に開花し、朝にはしぼんでしまう。その風情、その花の色から、はかなさを感じさせる植物だ。昔の文学少年少女たちは、たいていが実物よりも先に、立原道造のソネット「ゆうすげびと」でこの花のことを知った。「悲しみではなかった日の流れる雲の下に/僕はあなたの口にする言葉をおぼえた/それはひとつの花の名であった/それは黄いろの淡いあわい花だった//僕はなんにも知つてはゐなかった/なにかを知りたく うつとりしてゐた/そしてときどき思ふのだが 一體なにを/だれを待ってゐるのだらうかと//昨日の風に鳴っていた 林を透いた青空に/かうばしい さびしい光のまんなかに/あの叢に 咲いていた・・・・そうしてけふもその花は//思いなしだが 悔いのように----/しかし僕は老いすぎた 若い身空で/あなたを悔いなく去らせたほどに!」。こうして何十年ぶりかで読み返してみると、失恋までをも美化しなければおさまらない詩人のナルシシズムを強く感じる。が、若さとはそういうものであるかもしれない。この詩を読んだころのことを思い出してみると、何の違和感も持たずに愛読できたのだから、私の若さもまた深くナルシシズムに浸っていたのだろう。句の作者はいま「夕菅」を眼前にして、やはり若き日への郷愁に誘われている。立原の詩が、すうっと胸をよぎったのかもしれない。「遠き日」への曰くいいがたい想いが、甘酸っぱくも蘇ってきた。「胸の高さに」の措辞は、実際の夕菅の丈と過去への想いの(いわば)丈とに掛けられているわけだが、少しもトリッキーな企みを感じさせないのは流石だ。美しい句だ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)

[ 読者より ]「夕菅」の載っている歳時記などとして、俳句の花(創元社)、季語秀句辞典(柏書房)、中村汀女監修・現代俳句歳時記(実業之日本社)、新日本大歳時記(講談社)をご教示いただきました。


June 2662004

 高階や扇子たれかを待つうごき

                           大塚千光史

気なく見上げた「高階」の人。高層の団地かマンションあたりでのことだろう。高くて顔はよく見えないけれど、佇んでしきりに「扇子」を使っている。べつに訝しく思ったわけではないが、使い方にどこか苛々しているような「うごき」がある。ああそうか、きっと誰かを待っているんだなと納得した句だ。誰にでも日常的に、こんなふうに些細なシーンの意味を納得することはあるにしても、それを句に書きとめるのはなかなかに難しいだろう。上手いものだ、達者なものである。この場合、作者に詠まれた人は作者の目を意識してはいない。が、逆に他人の目を意識したときに、しばしば私たちは自分の「うごき(しぐさ)」でその人にメッセージを送る場合がある。訝しく思われるかもしれないという思いが、頼まれもしないのにそうさせるのだ。昨日の午後、マンションの出口のところに住人の主婦が何をするでもなくぽつんと立っていた。足音で私に気づいた彼女は、それまでの所在ない姿から一転し、盛んに首を伸ばしては遠くの十字路の方を見やりだしたのである。つまり、私はここで誰かを待っているのですよというメッセージを私に発信しはじめたわけだ。会釈して通りすぎようとしたときに、私たちの前には豆腐屋の小さな車がすうっと現れて止まったのだった。主婦が待っていたのは、これである。「遅いじゃないの」という弾むような彼女の声。なんだかアリバイが証明された人みたいな調子に聞こえて、可笑しかった。もしも句の「高階」の人が作者に気づいたとしたら、他にどんな「うごき」を加えだろうか。つい、そんなことにまで連想を伸ばしてしまった。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


June 2762004

 今さらに吉川英治明易し

                           大谷朱門

語は「明易し(あけやすし)」で夏、「短夜」に分類。国民的作家というにふさわしい小説家といえば、現代では司馬遼太郎、その前では吉川英治だろう。文学的評価はまちまちだが、読んだことがなくても、たいていの人が名前くらいは知っているという意味では、疑いなく国民的だった。吉川英治が、どんなに偉かったか。それを私は、中学時代の社会科見学で教えられた。級友の兄貴が勤めていた縁で、青梅市(東京)の精興舎という印刷会社に出かけた。精興舎は、岩波文庫を多数手がけていた有名印刷所だ。今でも、あるのかしらん。案内の人が、ひとしきり印刷の仕組みや工程を説明してから、最後にこう言ったのである。「私たちの会社では、諸先生がたの原稿をとても大事にしています。たとえぱ皆さんもお名前を良く知っている小説家、吉川英治先生。先生の原稿を一字一句正しく印刷するのはもちろんですが、たとえ明らかに間違っている文字が書かれていても、その間違った文字を特別にその通りにきちんと作って印刷しているのです」。「へーえ」と私は驚き、「吉川英治って、たいしたもんなんだなあ」と大いに感心した。それほどに偉いというかポピュラーな作家だったから、読書好きの人ならば一冊や二冊は持っていただろう。作者はおそらく気まぐれに古い吉川英治を「今さら」と思いつつも読みはじめたところ、つい引き込まれてしまい、気がついたら白々と明け初めてきたのである。苦笑しながらも「今さら」のように本の表紙を眺め直し、かつての吉川英治への思いを新たにしたことだろう。句に誘われて、吉川英治が読みたくなった。家の中を探してみたが、文庫本で持っていたはずの『新平家物語』は見つからず、かろうじて少年向きの名作『神州天馬侠』だけがあった。ま、これでもいいか。『接吻』(2001)所収。(清水哲男)


June 2862004

 志ん生も文楽も間や軒忍

                           藤田湘子

語は「軒忍(のきしのぶ)」で「釣忍(つりしのぶ)」のことだと思うが、京都言葉で軒忍といえば里芋の茎、いわゆる「ずいき」を指す。芋茎を軒に吊るして干したことからだろうか。しかし、句の場合は食べ物だと、それこそ「間(ま)」が抜けてしまう。夏の季語だ。古今亭「志ん生」の五代目は明らかだとして、桂「文楽」は先代の八代目だろう。この人、本当は数えて六代目のはずが、「六」よりも「八」のほうが末広がりで縁起がいいやと勝手に八代目におさまってしまった。で、次を継いだ文楽はしかたなく九代目に。作者は二人の芸の魅力を思い返してみて、むろんいろいろと要因はあるけれど、とどのつまりは「間」に尽きる。他の噺家に抜きん出ていたのは、そこが一番だろうと納得している。目には涼しげな軒忍が写っていて、江戸前の噺家の思い出とよく釣り合う。更に一理屈こねておけば、軒忍は暑中に置くささやかな心理的句読点、すなわち生活の「間」のような役割を果たしているだろう。言わでものことだが、現代人はおおむね早口である。したがって、話し言葉にほとんど「間」というものがない。話すとなると、何かにせっつかれたように、次から次へと言葉を繰り出していないと安心できないのである。かといって、立て板に水の話し方ともまた違う。好調時の黒柳徹子や久米宏のようだったら立て板に水と言えるが、そうではなくて、話す中味とバランスの取れない早さなのだ。この二人には、早口のなかにも中味に釣り合った緩急の「間」というものが、微妙ながらにもちゃんとある(ついでに言えば、古館伊知郎の早口にはそれがあまりない)。「間」とは、話の力点や筋道を指し示す無言の指示言語みたいなものだろう。これを欠いた話し言葉が、その分だけ痩せていくのは当然である。俳誌「鷹」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


June 2962004

 子の傘の紫陽花よりも小さくて

                           田中裕明

語は「紫陽花(あじさい)」で夏。たまに小さい子の傘をそれと意識して見ると、実に小さいものだなあと、あらためて思う。この場合は、作者のお子さんの傘かもしれない。どれくらい小さいのかと言えば、そこらへんの「紫陽花よりも」小さいのである。むろん、咲いている紫陽花のひとかたまりよりも、だ。雨の中を行く子の傘の高さも、だいたい紫陽花のそれと同じくらいだし、この比較はごく自然であり無理がない。単純にして明快である。田中裕明の句はたくさん読んできたが、持ち味を一言で言えば、この単純明快さにこそあると思う。言い換えれば、作句時における作者は、常に言いたいことをはっきりと持っていて、そのために表現の焦点を絞り込んでいるということだ。誰だって、言いたいことがあるから詠むんじゃないの。と思われるかもしれないが、それはそうだとしても、言いたいことの実現のためにフォーカスを絞り込むのは楽な作業ではない。つい周辺のあれこれに目移りがして、そのうちに言いたいことから句がずれてしまう経験は、誰にもあるだろう。そうやってずれてしまった句が、けっこう客観的には良い句に仕上がったりもするのだから厄介だ。自身の本意からずれてしまった句は、いかに佳句のように見えようとも、当人にとっては不本意のままでありつづけるだろう。そんな不本意な句をいくら積み重ねても、表現者失格である。俳句様式の怖さの一つはここにあるのであって、いくらずれても句にはなるし、それらしくもなる。すなわち逆に、言いたいことを俳句で言うのがいかに難しいか。掲句はなんでもない句のようだが、その意味で、俳句様式の甘い罠にとらわれることなく、しっかりと言いたいことを言い切った好例として掲出しておきたい。抒情性も十分だ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


June 3062004

 あぢさゐを小突いてこども通りけり

                           小野淳子

ったく、しようがないなあ。と思いつつも、作者は微笑している。男の子だろう。「なんだい、こんなもん」と言わんばかりに、ちょんと小突いて行ってしまった。見たままそのまんまの句だが、男の子ならいかにもという感じがよくとらえられている。女の子だったことはないのでわからないが、私自身のことを思い出しても、小学生くらいまでは花に関心を持ったことはないような気がする。おそらく、友人たちもそうだったろう。しげしげと花を見つめている男の子なんて、なんとなく気色が悪い。というのは偏見だろうが、そんな男の子を見た記憶もないのである。稲垣足穂によれば、加齢にしたがって人の関心は移っていくのだという。最初が動物で、その次は植物、そして最後には鉱物に至ると書いている。そういえば子供は昆虫の類が好きだし、鳥や獣も好きだ。人も動物のうちだから、思春期以降は異性への関心が高まる。その期間が過ぎると、今度は植物というわけで、ここでようやく花への関心も湧いてくることになる。道ばたに咲く花を、ちょっと立ち止まってみたりするようになってゆく。私の場合だと、四十歳くらいでそのことが意識された。そして稲垣説の最後は鉱物というわけだが、これはまだ私には当てはまらないと思う。よく河原などから石を拾ってきて庭に置いたりする人がいるけれど、そんな衝動に駆られたことはない。ただ、若い頃と違って、そうした石の趣味をくだらないと思う気持ちは失せている。理解できるような気はするのだ。もうしばらくすると、私も石を拾ってきたりするようになるのだろうか。更に稲垣説の先を言えば、老人は子供にかえるというから、もう一度「あぢさゐ」を小突くようなことになるかもしれない。しかし、掲句の「こども」を「老人」に入れ替えてみると、かなり不気味だなア(笑)。『桃の日』(2004)所収。(清水哲男)




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