「詩学」「現代詩手帖」「ユリイカ」「詩と思想」。半日かけて読んで、疲れた。




2004ソスN5ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2852004

 東伯林の新樹下を人近づき来

                           殿村菟絲子

語は「新樹(しんじゅ)」で夏。「新緑」が主として若葉をさすのに対し、木立をさす。崩壊して十五年になる伯林(ベルリン)の壁は、もう伝説化していると言ってよいだろう。句は、その伝説の中で詠まれた。前書きに「西伯林、東西独乙を劃す壁肌寒し」とある。ポツダム広場の物見台あたりから、壁の向こう側を眺めたのだろう。道を歩いていては、新樹はともかく「人」は見えない。眺めやれば、こちら側と似たような光景が広がっていて、ゆっくりと人が近づいてくるのも見える。何の変哲もない情景だが、新樹や人は指呼の間にあっても、こちらからあちらまでの政治的な距離はほとんど無限に遠いのである。こういうときには壁の理不尽を思うよりも、頭の中が白くなる感じがするものだ。経緯は省略するが、私は一度南北朝線を分つ板門店に立ったことがあるので、作者の気持ちがよくわかるような気がする。よく南北会談に使われる会議場が境界線上にあり、室内はマイクのコードで室外も黒いラインで、南北が分たれていた。室内の南北移動は自由だったが、室外のラインを一歩でもまたげば不法入国だ。両側には鼻面をつきあわさんばかりにして、完全武装の兵士たちが見張っている。凄い緊張感を覚えたと同時に、白日夢でも見ているような気分だった。作者もまた、そんな気持ちだったのだと思う。美しい自然の中を、何事もないように人がこちらに向かって歩いてくる……。眼前の現実ではありながら、しかしそれは夢に等しいのである。『牡丹』(1967)所収。(清水哲男)


May 2752004

 五月雨や御豆の小家の寝覚がち

                           与謝蕪村

語は「五月雨(さみだれ)」で夏。陰暦五月に降る雨だから、現代の「梅雨」と同義だ。ただ同じ季節の同じ長雨といっても、昔のそれについては頭を少し切り替える必要がある。昔は、単に鬱陶しいだけではすまなかったからだ。「御豆(みず)」は、淀川水系の低湿地帯の地名であり、今の地図に「(淀)美豆」「水垂」と見える京都郊外のあたりだろう。周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである。(清水哲男)


May 2652004

 青田風チェンジのときも賑やかに

                           中田尚子

語は「青田(風)」で夏。一面の青田を渡ってくる風が心地よい。そんな運動場で行われている少年野球だ。両チームともに元気で、試合中にもよく声が出ているが、攻守交代時にもすこぶる賑やかである。周囲で応援している親や大人の緊張ぶりに比べて、少年たちのほうは伸び伸びと屈託がない。私が子供だったころの小学校の校庭を思い出す。清々しい句だ。ただ思い出してみると、少年たちが賑やかなのは、必ずしもリラックスしているときだけではなかった。緊張感が増してくると、逆にそれを和らげようとして、妙に饒舌になったりはしゃいでみたりする奴も出てくるのだ。接戦ともなれば、異常に騒々しく賑やかになったりする。ふだんは無口な奴が、奇声を発したりもする。やはり勝負事は、なかなかクールでいるわけにはいかないようだ。そしてたしかに、大声を出してみると、緊張感は多少とも薄らぐのである。いま住んでいる家の近くに立派なグラウンドがあって、ときたま少年野球の公式戦に出くわすことがある。先日見物していたら、チェンジでベンチに帰ってくる小学生たちに、しきりに檄を飛ばしている大人のコーチがいた。円陣を組ませては、何やら叫ばせている。遠くからでは何を言っているのかわからないので、ベンチ裏まで近づくと、コーチの指示がはっきり聞こえてきた。「いいか、これは英語だからお前らにはわからんだろうが、大事な言葉だぞ。さあ、元気な声でいってみよう。『ネバー・ネバー・サレンダーッ !』」。つづいて子供たちが唱和していたが、いまひとつ元気な声が出てこない。やっぱり意味不明の言語では、気合いが入らないのだろう。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)




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