最近のスパムメールはピンク系より金貸し系。色気よりも食い気。世も末である。




2004ソスN5ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2652004

 青田風チェンジのときも賑やかに

                           中田尚子

語は「青田(風)」で夏。一面の青田を渡ってくる風が心地よい。そんな運動場で行われている少年野球だ。両チームともに元気で、試合中にもよく声が出ているが、攻守交代時にもすこぶる賑やかである。周囲で応援している親や大人の緊張ぶりに比べて、少年たちのほうは伸び伸びと屈託がない。私が子供だったころの小学校の校庭を思い出す。清々しい句だ。ただ思い出してみると、少年たちが賑やかなのは、必ずしもリラックスしているときだけではなかった。緊張感が増してくると、逆にそれを和らげようとして、妙に饒舌になったりはしゃいでみたりする奴も出てくるのだ。接戦ともなれば、異常に騒々しく賑やかになったりする。ふだんは無口な奴が、奇声を発したりもする。やはり勝負事は、なかなかクールでいるわけにはいかないようだ。そしてたしかに、大声を出してみると、緊張感は多少とも薄らぐのである。いま住んでいる家の近くに立派なグラウンドがあって、ときたま少年野球の公式戦に出くわすことがある。先日見物していたら、チェンジでベンチに帰ってくる小学生たちに、しきりに檄を飛ばしている大人のコーチがいた。円陣を組ませては、何やら叫ばせている。遠くからでは何を言っているのかわからないので、ベンチ裏まで近づくと、コーチの指示がはっきり聞こえてきた。「いいか、これは英語だからお前らにはわからんだろうが、大事な言葉だぞ。さあ、元気な声でいってみよう。『ネバー・ネバー・サレンダーッ !』」。つづいて子供たちが唱和していたが、いまひとつ元気な声が出てこない。やっぱり意味不明の言語では、気合いが入らないのだろう。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


May 2552004

 甚平や概算という暮し方

                           小宅容義

語は「甚平(じんべい)」で夏。薄地で作った袖無しの単衣。仕事着やふだん着に使う。私は持っていないが、素肌に着ると涼しそうだ。掲句について、作者は「年を取った一人暮しは全く自堕落という外はない。命までもだ」と言っている。自嘲であるが、ざっくりと甚平を着ていると「自堕落」ぶりが助長されるような気持ちになるのだろうか。たしかに、身体の一部を多少とも締めていないと気持ちのゆるみは出てくるだろうが……。「概算」は、今風に言えば「アバウト」の意だろう。大雑把というよりも、いい加減というニュアンスに近い。何事につけ、投げやりになる。いい加減に放っておきたくなる。誰に迷惑をかけるわけじゃなし、面倒だから適当に放置しておく。そしてこの姿勢が高じてくると自虐的になり、自嘲の一つも出てくるようになる。アバウトな「暮し方」に、私は若いころには憧れた。呑気でいいなあと、無邪気に思っていたからである。ところがだんだん年を取ってくると、他人の目にはどう写るかは知らないが、物事をアバウトに処することはかなり苦しいことだとわかってきた。心身が衰えてきたせいで、諸事に面倒を感じるようになり、つい手を抜く。抜きたくなる。豪儀な手抜きではないのだ。じりっじりっと、社会との接点や付き合いのレベルを下げていかざるを得ない。この自覚は、苦しいのだ。楽ではない。作者の自嘲も、おそらくはそのふたりに根があるのではないのかと、他人事とは思えない。実は甚平は前から欲しかったのだけれど、ずいぶんとヤバそうだ。止めとこう。「俳句」(2004年6月号)所載。(清水哲男)


May 2452004

 手渡しの重さうれしき鰻めし

                           鷹羽狩行

語は「鰻(うなぎ)」で夏。掲句のように、作者は身構えない句の名手だ。何の変哲もない日常の断片を捉えて、見事にぴしゃりと仕立て上げる。天性のセンスの良さがなせる業としか言いようがなく、真似しようとして真似できるものではないだろう。その意味では、虚子以来の名人上手と言うべきか。前書に「茨城・奥久慈」とあるが、ここが鰻の産地であるかどうかは知らない。いや、むしろ産地ではないからこそ、思いがけなく出てきた「鰻めし」と解したほうが面白そうだ。旅の幹事役が一人ひとりに手渡しているのは、駅弁かどこかの店の折詰である。包装紙から中身が鰻めしであるとはすぐに知れたが、いささか小ぶりに感じられた。だが、実際に手渡されてみると、意外にもずっしりとした手応え。思わずも「うれし」くなってしまったというそれだけの句であるが、実に巧みに人情のツボを押さえている。いわば人の欲のありようを、さりげなくも鋭く描き出している。同じものならば少しでも重いほうが、あるいは大きいほうが得をしたような気になるものだ。べつに作者はがつがつしているわけではないけれど、こうした他愛ない欲の発露にうれしくなる自分(ひいては人間というもの)に小さく驚き、むしろ新鮮味すら覚えているのだと思う。誰にでも覚えのあることながら、このような些事を句にしようとする人は皆無に近い。句作において、この差は大きい。作者の天性を云々したくなる所以である。『十四事』(2004)所収。(清水哲男)




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