テレビがしつこく拉致家族の同じ映像を流している。そっとしておいてやれよ。




2004ソスN5ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2552004

 甚平や概算という暮し方

                           小宅容義

語は「甚平(じんべい)」で夏。薄地で作った袖無しの単衣。仕事着やふだん着に使う。私は持っていないが、素肌に着ると涼しそうだ。掲句について、作者は「年を取った一人暮しは全く自堕落という外はない。命までもだ」と言っている。自嘲であるが、ざっくりと甚平を着ていると「自堕落」ぶりが助長されるような気持ちになるのだろうか。たしかに、身体の一部を多少とも締めていないと気持ちのゆるみは出てくるだろうが……。「概算」は、今風に言えば「アバウト」の意だろう。大雑把というよりも、いい加減というニュアンスに近い。何事につけ、投げやりになる。いい加減に放っておきたくなる。誰に迷惑をかけるわけじゃなし、面倒だから適当に放置しておく。そしてこの姿勢が高じてくると自虐的になり、自嘲の一つも出てくるようになる。アバウトな「暮し方」に、私は若いころには憧れた。呑気でいいなあと、無邪気に思っていたからである。ところがだんだん年を取ってくると、他人の目にはどう写るかは知らないが、物事をアバウトに処することはかなり苦しいことだとわかってきた。心身が衰えてきたせいで、諸事に面倒を感じるようになり、つい手を抜く。抜きたくなる。豪儀な手抜きではないのだ。じりっじりっと、社会との接点や付き合いのレベルを下げていかざるを得ない。この自覚は、苦しいのだ。楽ではない。作者の自嘲も、おそらくはそのふたりに根があるのではないのかと、他人事とは思えない。実は甚平は前から欲しかったのだけれど、ずいぶんとヤバそうだ。止めとこう。「俳句」(2004年6月号)所載。(清水哲男)


May 2452004

 手渡しの重さうれしき鰻めし

                           鷹羽狩行

語は「鰻(うなぎ)」で夏。掲句のように、作者は身構えない句の名手だ。何の変哲もない日常の断片を捉えて、見事にぴしゃりと仕立て上げる。天性のセンスの良さがなせる業としか言いようがなく、真似しようとして真似できるものではないだろう。その意味では、虚子以来の名人上手と言うべきか。前書に「茨城・奥久慈」とあるが、ここが鰻の産地であるかどうかは知らない。いや、むしろ産地ではないからこそ、思いがけなく出てきた「鰻めし」と解したほうが面白そうだ。旅の幹事役が一人ひとりに手渡しているのは、駅弁かどこかの店の折詰である。包装紙から中身が鰻めしであるとはすぐに知れたが、いささか小ぶりに感じられた。だが、実際に手渡されてみると、意外にもずっしりとした手応え。思わずも「うれし」くなってしまったというそれだけの句であるが、実に巧みに人情のツボを押さえている。いわば人の欲のありようを、さりげなくも鋭く描き出している。同じものならば少しでも重いほうが、あるいは大きいほうが得をしたような気になるものだ。べつに作者はがつがつしているわけではないけれど、こうした他愛ない欲の発露にうれしくなる自分(ひいては人間というもの)に小さく驚き、むしろ新鮮味すら覚えているのだと思う。誰にでも覚えのあることながら、このような些事を句にしようとする人は皆無に近い。句作において、この差は大きい。作者の天性を云々したくなる所以である。『十四事』(2004)所収。(清水哲男)


May 2352004

 玻璃皿の耀りに輪切りのパイナップル

                           住吉一枝

語は「パイナップル」で夏。困ったことに、「耀り」の読み方がわからない。「耀」は訓読みでは「かがやき」としか読まないはずだが、「耀り」とは、はてな。仕方がないから、いちおう我流で「ひかり」と読んでおくことにする。何とも頼りない話で申し訳ないのだけれど、読めなくても句意はよくわかる。しかも、この読めない「耀り」という漢字が、掲句にはふさわしいものであることも……。私などの世代には、長い間、パイナップルやバナナは憧れの果実であった。高価でもあったが、品薄でもあったので、なかなか口に入ることがなかった。たまさか幸運にも食べる機会があると、胸がわくわくしたものである。いまでこそ果実店には生のパイナップルが置かれているが、子供の頃に胸ときめかせたのは生のものではなくて、缶詰のものだった。俗に「パイ缶」と言う。生のパイナップルなどは、写真か絵でしか見たことがないという時代。かの特攻隊の出撃前の最後の食事には赤飯と缶詰のパイナップルが出たというレポートもあるくらいで、とにかく貴重に超の字がつくほどの果実だったのだ。句のパイナップルは「輪切り」とあるから、むろん缶詰のそれである。憧れの果実が特別な「玻璃(ガラス製)皿」に盛られた様子に、目を輝かせて喜んでいる作者の気持ちが痛いほど伝わってくる。まさに「耀」たりではないか。そして気がつけば、私たちの周辺には憧れるほどの食べ物は無くなっている。それだけ世の中が豊かになった証明ではあるが、なんだか淋しい時代になってきたような気もする。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[ 早速 読者の方より ]「耀り」は「てり」と読むとのご教示がありました。当て読みなのでしょうが、なるほどと納得です。ありがとうございました。




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