国家の理不尽により翻弄される人々の痛苦。むろん、今回の拉致家族に限らない。




2004ソスN5ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2352004

 玻璃皿の耀りに輪切りのパイナップル

                           住吉一枝

語は「パイナップル」で夏。困ったことに、「耀り」の読み方がわからない。「耀」は訓読みでは「かがやき」としか読まないはずだが、「耀り」とは、はてな。仕方がないから、いちおう我流で「ひかり」と読んでおくことにする。何とも頼りない話で申し訳ないのだけれど、読めなくても句意はよくわかる。しかも、この読めない「耀り」という漢字が、掲句にはふさわしいものであることも……。私などの世代には、長い間、パイナップルやバナナは憧れの果実であった。高価でもあったが、品薄でもあったので、なかなか口に入ることがなかった。たまさか幸運にも食べる機会があると、胸がわくわくしたものである。いまでこそ果実店には生のパイナップルが置かれているが、子供の頃に胸ときめかせたのは生のものではなくて、缶詰のものだった。俗に「パイ缶」と言う。生のパイナップルなどは、写真か絵でしか見たことがないという時代。かの特攻隊の出撃前の最後の食事には赤飯と缶詰のパイナップルが出たというレポートもあるくらいで、とにかく貴重に超の字がつくほどの果実だったのだ。句のパイナップルは「輪切り」とあるから、むろん缶詰のそれである。憧れの果実が特別な「玻璃(ガラス製)皿」に盛られた様子に、目を輝かせて喜んでいる作者の気持ちが痛いほど伝わってくる。まさに「耀」たりではないか。そして気がつけば、私たちの周辺には憧れるほどの食べ物は無くなっている。それだけ世の中が豊かになった証明ではあるが、なんだか淋しい時代になってきたような気もする。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[ 早速 読者の方より ]「耀り」は「てり」と読むとのご教示がありました。当て読みなのでしょうが、なるほどと納得です。ありがとうございました。


May 2252004

 枇杷抱けば ピカソの女が泣くような

                           伊丹啓子

語は「枇杷(びわ)」で夏。「ピカソの(描いた)女」は、言うまでもなく抽象化されている。したがって、この句もまた抽象化された表現として読む必要があるだろう。小さな枇杷の実をたとえ複数個であろうとも、「抱けば」とするのは具象表現としては妙なのだが、抽象化したそれと読めば違和感はない。私は、たった一個の枇杷だと見る。そのほうが、抽象度が高まるからだ。一個の枇杷を抱く気持ちで両掌で包んだときに、いきなりピカソの女が泣くような構図になったと言うのである。抽象は物象を形骸化することではなく、その本質を掴み浮き上がらせることだ。このときに鼻や目の位置がおかしいとか、身体各部の釣り合いがとれていないといった日常的常識的な目は無効となる。ピカソの女は、宇宙的自然的な時空間とのバランスがとれていれば、それでよいのだからである。一切の虚飾や虚妄を排された一個の生命の姿が、そこにある。だから「泣く」にしても、忍び泣きなどではなくて、心底から込み上げてくる感情の吐露でなければならない。掲句は、両掌にそっと枇杷を包んで湧いてきたいとおしいような感情がぐんと高まってきて、その純粋な気持ちが、ピカソの女のそれと無理なく自然に通じ合ったのだ。いまならば、ともに泣けるだろう。そのような一種の至福の心境が、良質な抒情性を伴って述べられている。作者のこの孤独のありようは、枇杷の色さながらに、むしろ明るい。なお、俳句の文字間空け表記に私は必ずしも賛成ではないのだが、この句の場合には好感が持てた。『ドッグウッド』(2004)所収。(清水哲男)


May 2152004

 子供地をしかと指しをり蚯蚓這ひ

                           高浜虚子

語は「蚯蚓(みみず)」で夏。「子供」とあるが、まだ物心がついたかつかないかくらいの幼児だろう。値を這う蚯蚓を見つけて、真剣な表情で指差している。不思議そうにしたり、気持ち悪がったりしているのではない。かといって、発見を誰かに告げようとしているのでもない。ただひたすらに「しかと」、地に動く物を指差している。強いて言えば、自分の発見を自分で「しかと」確認しているのだ。幼児はしばしばこういう所作をして、大人を微笑させたり苦笑させる。何を真剣に見つめているのかと思えば、大人の分別ではとるに足らぬものだったりする。幼児には、池の鯉も地の蚯蚓やトカゲも等価なのだから。そこがまた、なんとも可愛らしく思えるところだ。こういう句は、想像では詠めない。しかし、実際に目撃したとしても、なかなか詠めるものではないだろう。そこはさすがに虚子だけのことはあり、幼児の幼児たる所以の根っ子のところを見事に写生してみせている。しかもこの写生は、絵画的なスケッチやスナップ写真などでは写せないところまでを写し込んでいて、舌を巻く。絵画や写真では、どうやっても「しかと」の感じが出せそうもないからだ。幼児なりの「しかと」の気合いは、外面的な様子には現れにくい。その場にいて、ようやくわかる態のものである。それを虚子は、それこそしっかりと「しかと」の措辞に託した。いや、なんとも上手いものである。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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