伊丹啓子の句

May 2252004

 枇杷抱けば ピカソの女が泣くような

                           伊丹啓子

語は「枇杷(びわ)」で夏。「ピカソの(描いた)女」は、言うまでもなく抽象化されている。したがって、この句もまた抽象化された表現として読む必要があるだろう。小さな枇杷の実をたとえ複数個であろうとも、「抱けば」とするのは具象表現としては妙なのだが、抽象化したそれと読めば違和感はない。私は、たった一個の枇杷だと見る。そのほうが、抽象度が高まるからだ。一個の枇杷を抱く気持ちで両掌で包んだときに、いきなりピカソの女が泣くような構図になったと言うのである。抽象は物象を形骸化することではなく、その本質を掴み浮き上がらせることだ。このときに鼻や目の位置がおかしいとか、身体各部の釣り合いがとれていないといった日常的常識的な目は無効となる。ピカソの女は、宇宙的自然的な時空間とのバランスがとれていれば、それでよいのだからである。一切の虚飾や虚妄を排された一個の生命の姿が、そこにある。だから「泣く」にしても、忍び泣きなどではなくて、心底から込み上げてくる感情の吐露でなければならない。掲句は、両掌にそっと枇杷を包んで湧いてきたいとおしいような感情がぐんと高まってきて、その純粋な気持ちが、ピカソの女のそれと無理なく自然に通じ合ったのだ。いまならば、ともに泣けるだろう。そのような一種の至福の心境が、良質な抒情性を伴って述べられている。作者のこの孤独のありようは、枇杷の色さながらに、むしろ明るい。なお、俳句の文字間空け表記に私は必ずしも賛成ではないのだが、この句の場合には好感が持てた。『ドッグウッド』(2004)所収。(清水哲男)




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