JALのイヤホンで浪曲を聴いたが、なんと続きもの。また乗って聞けってえのか。




2004ソスN5ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1852004

 顔面の蚊を婦人公論で叩く

                           佐山哲郎

が出はじめた。油断して網戸を開けておくと、どこからともなく、部屋の中にプーンと入ってくる。この音を聞くと「もう夏なんだなあ」とは思うが、べつに特段の風情を感じるわけじゃない。作者は顔面にとまった蚊を、たまたま読んでいた「婦人公論」で叩いたのだ。雑誌を傍らに置いてから叩いたのでは逃げられてしまうので、緊急やむを得ず雑誌で打ったということだろう。寝転んで読んでいたのかもしれない。ただそれだけのことだが、なんとなく可笑しい。可笑しさを生んでいるのは、むろん「婦人公論」という固有の雑誌名をあげているからだ。単に雑誌で叩いたと言うのとは違って、変な生々しさがある。妙な抵抗感もある。事もあろうに、何もよりによって(ではないのだけれど)「婦人公論」で叩くことはないじゃないか。と、読者はふっと思ってしまう。というのも、この雑誌が持っている(どちらかというと)硬派のイメージが、蚊を叩くというような日常性べったりの行為にはそぐわないからなのだ。しかも、叩いたのは「顔面」だ。インテリ女性がいきなり男の顔を平手打ちにしたようなイメージも、ちらりと浮かぶ。だから、よけいに可笑しい。これが例えば「女性自身」や「週刊女性」だったら、どうだろうか。やはり可笑しいには違いないとしても、その可笑しさのレベルには微妙な差があるだろう。俳句は、名所旧跡神社仏閣あるいは地方名物などの固有名詞を詠み込むのがお得意である。掲句は商標としての固有名詞を使っているわけだが、その意味からすると俳句の王道を行っていることになる。そのことを思うと、またさざ波のように可笑しさが増してくるのは何故なのだろう。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


May 1752004

 応援歌泰山木は咲かむとす

                           草深昌子

語は「泰山木(たいさんぼく)の花」で夏。はつなつ讃歌。爽快な句だ。近所の学校からか競技場からか、元気あふれる応援歌が聞こえてくる。天気は上々なのだろう。見上げると、泰山木の花が大きなつぼみを今にも開こうとしていた。応援歌を聞いて下うつむく人はあまりいないだろうから、作者の視線の方向には無理がなく、お互いに何の関係もない応援歌と泰山木とがごく自然にしっくりと結びついている。「咲かむとす」の語勢も良く効いていて、ものみな生命を吹き上げるこの季節の喜びをしっかりと表現した佳句だ。実に、気持ちが良い。私の通っていた高校には立派な泰山木があったので、掲句を読んだときにすぐ思い出した。が、当時の私は精神的にかなり屈折した(ひねくれた)状態にあったので、句のような情景があったとしても、素直には反応しなかったろうとも思われた。何を見ても何があっても、暗いほうへと心が傾いていってしまっていた。なかなか素直になれない。よくよく考えてみると、つい最近まで多少ともつまらないことに拘泥する癖があったと思う。いや今でも癖は抜けていないかもしれないのだけれど、ようやく掲句の作者と同じ心持ちになれるようになってはきており、これまでの屈折の時期を客観視できるようにもなってきた。ずいぶんと長い間、素直さを獲得できないでいたことに、下世話に言えば大損だったと舌打ちしたい気分だ。素直になれることも、きっと才能のうちなのだろう。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)


May 1652004

 サルビアを咲かせ老後の無計画

                           菖蒲あや

語は「サルビア」で夏。真夏の花のイメージが強いが、もう咲いているところもある。一年草で、花期は長い。一夏をまるで炎のように燃え上がり、やがて燃え尽きてしまう。そんなイメージの花だ。掲句はこのサルビアの特長をよく捉えて、「老後の無計画」に引き寄せている。作者には「サルビアを咲かせ」ている現在の手応えに比べると、不確定要素の多すぎる老後への計画などは漠然としすぎていて頼りないのだ。いつかはサルビアのように、我が身も燃え尽きてしまうのは確かだ。が、その燃え尽きる寸前までの計画を立てるといっても、どこから何をどのように考えていけばよいのだろう。気にはしながらも、ついつい無計画のままに日を送りつづけてきた。毎夏この花を咲かせることくらいしか、私には計画など立てられそうもない。ままよと開き直ったような気持ちも含まれているのだろう。サルビアを咲かせない私にも、身につまされる句だ。書店には定年後や老後の過ごし方みたいな本がけっこう並んでいるけれど、たまに拾い読みをしてみても、何の役にも立ちそうもない気がする。定年を控えた人が、よく老後の楽しみを言うのだが、あれも聞いていると絵空事のように思えてならない。漠然と世間が思い描いている老後のイメージと現実のそれとは、大きな食い違いがある。その食い違いを知るには実際の老人になってみなければ、誰にもわからないから厄介だ。作者のみならず、老後に無計画で臨む人のほうが、むしろ一般的なのではあるまいか。そんなことを思ってみたところで、何がどうなるわけでもないけれど。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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