久留米ラーメンが美味いらしいので、食べて帰ろう。昨年は忘れて食べ損なった。




2004年5月16日の句(前日までの二句を含む)

May 1652004

 サルビアを咲かせ老後の無計画

                           菖蒲あや

語は「サルビア」で夏。真夏の花のイメージが強いが、もう咲いているところもある。一年草で、花期は長い。一夏をまるで炎のように燃え上がり、やがて燃え尽きてしまう。そんなイメージの花だ。掲句はこのサルビアの特長をよく捉えて、「老後の無計画」に引き寄せている。作者には「サルビアを咲かせ」ている現在の手応えに比べると、不確定要素の多すぎる老後への計画などは漠然としすぎていて頼りないのだ。いつかはサルビアのように、我が身も燃え尽きてしまうのは確かだ。が、その燃え尽きる寸前までの計画を立てるといっても、どこから何をどのように考えていけばよいのだろう。気にはしながらも、ついつい無計画のままに日を送りつづけてきた。毎夏この花を咲かせることくらいしか、私には計画など立てられそうもない。ままよと開き直ったような気持ちも含まれているのだろう。サルビアを咲かせない私にも、身につまされる句だ。書店には定年後や老後の過ごし方みたいな本がけっこう並んでいるけれど、たまに拾い読みをしてみても、何の役にも立ちそうもない気がする。定年を控えた人が、よく老後の楽しみを言うのだが、あれも聞いていると絵空事のように思えてならない。漠然と世間が思い描いている老後のイメージと現実のそれとは、大きな食い違いがある。その食い違いを知るには実際の老人になってみなければ、誰にもわからないから厄介だ。作者のみならず、老後に無計画で臨む人のほうが、むしろ一般的なのではあるまいか。そんなことを思ってみたところで、何がどうなるわけでもないけれど。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 1552004

 我鬼窟に百鬼寄る日や夏芭蕉

                           久米三汀

に「芭蕉」といえば秋の季語。「夏芭蕉」なら、歳時記的には「玉巻く芭蕉」のことだろう。初夏、固く巻いたままの新葉が伸び、薄緑の若葉がほぐれてくる。芭蕉の最も美しい季節だ。掲句は我鬼窟(芥川龍之介邸)で行われる句会の案内状に、三汀(作家・久米正雄)が記したものだ。仲間内向けのちょっとした挨拶句だから、調子は軽い。句会の様子を伝えた「文章倶楽部」(大正八年八月号)によると、参加者は主人の龍之介、宗匠格の三汀、室生犀星、滝井孝作、菊池寛、江口渙のほか、谷崎潤一郎の義妹・勢以子や大学生など十数名。まさに「百鬼」だ。それにしてもこれだけの人数が集まれば、冷房装置などない頃だから、暑かったでしょうね。詠んだ句を団扇に書いて、それでパタパタやったらしい。そんな調子だから、取り立てて見るべき句も見当たらない。いわゆる「遊俳」気分の座であった。この句を紹介した本『文人俳句の世界』で、小室善弘が気になることを書きつけている。「これはこれで文人交歓の図としてとがめだてするにも及ばないことだが、同じ時期に「胸中に冬の海ある暗さかな」と凄愴な象徴句を作り得る三汀が、文士仲間の宗匠におさまって、せっかくの素質を調子の低い遊びのなかにうやむやにしてしていく気配が感じられるのは、残念な気がする」。遊びだからといって調子を下げているうちに、いつしか下がりっぱなしになってしまう。その怖さは、たしかにある。本格的な結社の宗匠にだって、現にそういうことは起きている。「遊びだけど、真剣に遊ぼう」と言った辻征夫の言葉を、あらためて思い出した。(清水哲男)


May 1452004

 夏未明音のそくばく遠からぬ

                           野沢節子

の夜明けは早い。この時期でも、もう四時半頃には空が白んでくる。「未明」とはあるが、早朝のそんな時間帯だろう(季語「夏の暁」に分類)。早起きの鳥たちは鳴きはじめ、新聞配達の人の足音もする。一日がはじまりつつあるのだ。「そくばく」は「若干」の意の古語だ。「そこばく」と言ったほうが、思い当たる人は多いだろうか。そして、この「音のそくばく」のなかには、「遠からぬ」それも混じっている。朝食の支度のために起きだした母親の気配は、誰にも懐かしく思い出される身近な音のひとつだ。むろん、作者はまだ布団の中にいて、夢か現かの状態でそれらの音を耳にしている。そういうときには、いまの自分が大人なのか子供なのかというような意識はない。聞こえてくる音も、現実のそれかか昔のそれなのかの区別もない。だから、ふと目覚めた作者の耳には、現実の音と記憶の中の音とがないまぜになって聞こえている。すなわち距離的にも時間的にも「遠からぬ」と詠んだわけで、かつての音もまたいまの音ですら、とても懐かしい響きをもって蘇ってきたと言うのである。うとうととろとろとした心地よい状態のなかで、こみあげてくる懐かしさ。これぞ至福のときと呼んでよいのではあるまいか。残念なことに私は早起きだから、あまりこうした体験はない。たまには、すっかり明るくなるまで寝ていたいとも思うけれど、ついつい起き上がってしまう。遅寝をすると、なんだかソンをしたような気になる。貧乏性なのである。『未明音』(1955)所収。(清水哲男)




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