明日は久留米行き。その前に仕上げなければならぬ原稿が。気がもめる一日だ。




2004ソスN5ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1452004

 夏未明音のそくばく遠からぬ

                           野沢節子

の夜明けは早い。この時期でも、もう四時半頃には空が白んでくる。「未明」とはあるが、早朝のそんな時間帯だろう(季語「夏の暁」に分類)。早起きの鳥たちは鳴きはじめ、新聞配達の人の足音もする。一日がはじまりつつあるのだ。「そくばく」は「若干」の意の古語だ。「そこばく」と言ったほうが、思い当たる人は多いだろうか。そして、この「音のそくばく」のなかには、「遠からぬ」それも混じっている。朝食の支度のために起きだした母親の気配は、誰にも懐かしく思い出される身近な音のひとつだ。むろん、作者はまだ布団の中にいて、夢か現かの状態でそれらの音を耳にしている。そういうときには、いまの自分が大人なのか子供なのかというような意識はない。聞こえてくる音も、現実のそれかか昔のそれなのかの区別もない。だから、ふと目覚めた作者の耳には、現実の音と記憶の中の音とがないまぜになって聞こえている。すなわち距離的にも時間的にも「遠からぬ」と詠んだわけで、かつての音もまたいまの音ですら、とても懐かしい響きをもって蘇ってきたと言うのである。うとうととろとろとした心地よい状態のなかで、こみあげてくる懐かしさ。これぞ至福のときと呼んでよいのではあるまいか。残念なことに私は早起きだから、あまりこうした体験はない。たまには、すっかり明るくなるまで寝ていたいとも思うけれど、ついつい起き上がってしまう。遅寝をすると、なんだかソンをしたような気になる。貧乏性なのである。『未明音』(1955)所収。(清水哲男)


May 1352004

 泡盛や汚れて老ゆる人の中

                           石塚友二

語は「泡盛(あわもり)」で夏。沖縄特産の焼酎(しょうちゅう)ゆえ「焼酎」に分類。ウィスキーやブランデーと同じ蒸留酒だ。泡盛の名は、粟(あわ)でつくったとする説、醸造するときに泡が盛り上がったからとする説、杯に盛り上がるからとする説、また泡盛の強さを計るのに、水を混ぜて泡のたたなくなる水量で計ったことからとする説など、いろいろある。作者は、一人で静かに飲んでいるのだろう。酒場でもよし、家庭でもよし。飲みながら、つくづくと「オレも年をとったものだ」と慨嘆している。仲間と泡盛をあおって騒いだ若き日々や、いまいずこ。思い出せば、しかしあの頃は純真だった。純情だった。それが「人の中」で揉まれ、あくせくと過ごしているうちに、いつしか心ならずも「汚れて」しまった。「老ゆる」とは、年齢を重ねるとは汚れていくことなのだ。ゆったりした酔い心地のなかで、作者はおのれの老いを噛みしめている。ひとり泣きたいようなな気分なのだが、一方では、そんな自嘲の心持ちをどこか楽しんでいるようにも写る。素面のときの自嘲ではないから、自嘲とはいっても、どこかで自分を少しだけ甘やかしている。被虐の喜びとまではいかないけれども、掲句には何かそこに通じる恰好の良さがある。私には、そう感じられた。でも、決して意地の悪い読み方だとは思わない。むしろ、好感を持つからこその解釈である。自嘲にせよ、自分の老いを言う人には、まだ「人の中」での色気を失ってはいない。心底老いた人ならば、もはや表現などはしなくなるだろう。それくらいのことが、やっとわかりかけてくる年齢に、私は差し掛かってきたようである。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 1252004

 走り梅雨ホテルの朝餉玉子焼

                           馬渕結子

の週末、久留米(福岡県)に出かける。気になるので週間天気予報を見てみると、明日あたりからずうっと福岡地方には曇りと雨のマークが並んでいる。北九州の梅雨入りは、平年だと来月初旬なので、明日からの天候不良は「走り梅雨」と言ってよいだろう。いまどきから本格的な梅雨入りまでの旅は、これだから困る。日取りが近づかないと、なかなか天気が読めないのだ。五月なので晴天薫風を期待しているだけに、がっかりすることも多い。しかし、旅程は変えられない。ま、雨男だから仕方がないかな……。作者もまた、そんな天候のなかで旅をしている。降っているのか、あるいはいまにも降り出しそうなのか。ホテルで朝食をとりながら、空ばかりを気にしている。雨降りとなると、今日のスケジュールを修正しなければならないのかもしれない。そんなときに、ふっくらと焼き上がった黄金色の「玉子焼」は、なぜか吉兆のように見えるから不思議である。いまにもパアっと日がさしてきそうな、そんな予感を覚えて、作者の気持ちは少しやすらいでいるのだ。むろん気休めにすぎないとはわかっていても、旅の空の下では、普段ならさして気にもとめない玉子焼ひとつにも心を動かされることがある。そして、これも立派な旅情だと言うべきだろう。もしかすると、句の玉子焼は目玉焼なのかもしれないと思った。だとすれば、気休めにはそのほうがより効果的なような気がする。「目玉焼きは太陽である」というタイトルのエッセイが、草森紳一にあったのを思い出した。『勾玉』(2004)所収。(清水哲男)




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