麹町で定例会議。その前に必ず立ち寄る喫茶室はいまどき珍しく落ち着ける店だ。




2004ソスN5ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0752004

 麦秋や教師毎時に手を洗ふ

                           堀内 薫

語は「麦秋(麦の秋)」で夏。感想を書こうとして、待てよと筆が止まった。なぜ教師が「毎時に手を洗ふ」のかが、若い読者にピンと来るだろうかと思ったからだ。「毎時に」は授業時間の区切りごとにということで、普通の感覚からすると、かなり作者は頻繁に洗っている感じを受ける。といってこの場合、べつに作者が特別に清潔好きだから洗うわけじゃない。むろん、気分転換の意味合いもあるだろうけれど、それだけではない。昔の教師は黒板に白墨(はくぼく)で板書きしたせいで、手が白墨の粉まみれになったから、一時限ごとに汚れを落とす必要があったのである。実用としての手洗いなのだ。いまはホワイトボードやグリーンボードに、粉の出ないチョークで文字などを書くのが普通だろう。おかげで粉まみれとは無縁になり、教師は劣悪な白墨禍から救われたというわけだ。したがって、いまの若者には掲句がよくわからないかもしれないと思った次第である。麦畑を一望できる学校。手を洗いながら、作者は麦の秋の情景を見ている。水稲の実りのころも美しいが、麦秋の情景には元気な光りがある。夏に向かって物みな育ち行く勢いを帯びた光りだ。新学期がはじまってクラスも落ち着き、授業にエンジンがかかってくるころでもある。そんな季節だから、手を洗う水の冷たさも心地よく、作者は充実した心境にある。そんな職業人としての喜びが、句の端に洩れ光っているのがわかる。『堀内薫全句集』(1998)所収。(清水哲男)


May 0652004

 なつかしき遠さに雨の桐の花

                           行方克巳

語は「桐の花」で夏。もう咲いている地方もあるだろう。淡い紫色の花は、それ自体が抒情的である。近くで見るよりも遠くから見て、煙っているような感じが私は好きだ。本場の一つである岩手では県の花にもなっており、花巻あたりの山中で見ると、そぞろ故無き郷愁に誘われてしまう。我知らず、甘酸っぱいセンチメンタルな感情のなかへと沈んでゆく。句の場合には、そんな情景に明るいはつなつの雨が降っているのだから、その美しさはさぞやと想われる。「なつかしき遠さ」は、作者が遠望している桐の花までの実際の距離と、そして郷愁の過去までの時間の経過とを同時に示しているわけで、巧みな措辞だ。変なことを言うようだけれど、この句の良さは、使われている言葉の一つ一つが、いわゆる「つき過ぎ」であるところにあると思った。ひねりもなければ飛躍もない。ただ懐旧の情にそのままべったりと心を寄せている趣が、かえって句を強く鮮かにしているのだと……。妙にひねくりまわすよりも、こういうときには思い切って「つき過ぎ」に身をゆだねてしまったほうが、逆に清潔感や力強い感じを生む。考えてみるにそれもこれもが、素材が桐の花であるからではなかろうか。人がいかにセンチメンタルな感情をべたつかせようとも、桐の花にはそれをおのずから浄化してしまうような風情があるからだろう。そうした風情をよくわきまえた一句だと読んだ。見たいなあ、桐の花。残念なことに、我が家の近隣には見当たらない。「俳句」(2004年5月号)所載。(清水哲男)


May 0552004

 螫さるべき食はるべき夏来りけり

                           相生垣瓜人

夏。この言葉に触れただけで、何かすがすがしい気分になる。♪卯の花の匂ふ垣根に ほととぎすはやも来鳴きて 忍音(しのびね)もらす夏は来ぬ。佐佐木信綱の「夏は来ぬ」が、自然に口をついて出てきたりする。私自身もかつて「美しい五月」という短い詩を書いたことがあって、この季節になるとふっと思い出す。立夏の雰囲気にうながされるようにして、自然にすらすらと書けた詩だった。俳句でもすがすがしさを詠んだものが大半だが、なかにはぽろっと掲句のように臍が曲がったようなのもある。来る夏の鬱陶しさを詠んでいる。あっと、その前にお勉強だ。出だしの漢字「螫」を読める方は少ないだろう。むろん私も読めなかったので、漢和辞典を引いたクチだ。音読みでは「せき」、訓では「さ(す)」と読む。つまり「螫(さ)さるべき」と発音し、意味は「毒虫がさ(刺)す」ということだそうだ。ということで句意は、とうとう蚊などの虫に刺され食われる鬱陶しい季節がやってきたなあ、イヤだなあと、そんなところだろう。すがすがしいなんぞと、呑気なことは言ってられないというわけだ。すがすがしさを言う人は、考えてみれば、初夏のごく短期間をイメージしているのだけれど、作者はそのもっと先の本格的な長い夏場を思い浮かべている。それが同じ季語を使いながらも、句の気分の大きな差となって現れてくるのだ。面白いものである。しかし、立夏と聞いて夏の鬱陶しさを思うのは、あながち偏屈な感受性と言うわけにもいかないだろう。それは例えば「立冬」と聞いて、多くの人が長い冬の暗い雰囲気を想起するのと、精神構造的には同じことだからだ。したがって当然、先の臍曲り云々は取り消さねばなるまい。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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