車も少ないし街は静かだ。図書館までも空いている。東京に居座るのも悪くない。




2004ソスN5ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0352004

 乾きゆく音をこもらせ干若布

                           笠松裕子

語は「若布(わかめ)」で春。井川博年君から、彼の故郷(島根県)の名産である「板わかめ」をもらった。刈ってきた若布を塩抜きしてから板状に乾かして、およそ縦横30センチほどにカットした素朴な食品だ。特長は、戻したり特別な調理をしたりすることなく、袋から出してすぐに食べられるところである。早速食べてみて、あっと思った。実に懐かしい味が、記憶の底からよみがえってきたからだった。子供の頃に、たしかに食べたことのある味だったのだ。ちょっと火にあぶってからもみ砕いて、ご飯にかけたり握り飯にまぶたりしていたのは、これだったのか……。住んでいたのが島根隣県の山口県、それも山陰側だったので、島根名産を口にしていたとしても不思議ではない。それにしても、半世紀近くも忘れていた味に出会えたのは幸運だ。こういうこともあるのですね。そこで、誰かがこの懐かしい「板わかめ」を句に詠んでいないかと探してみた。手元の歳時記をはじめ、ネットもかけずり回ってみたが、川柳のページに「少しだけ髪が生えたか板ワカメ」(詠み人知らず)とあったのみ。笑える作品ではあるけれど、私の懐かしさにはつながらない。そこでもう一度歳時記をひっくり返してみているうちに、ひょっとすると「板わかめ」を題材にしたのかもしれないと思ったのが掲句である。食べるときのパリパリした感じが、実は「乾きゆく音」がこもったものと解釈すれば、「板わかめ」にぴったりだ。いや、これぞ「板わかめ」句だと、いまでは勝手に決め込んでいる。山陰地方のみなさま、如何でしょうか。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 0252004

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

                           松尾芭蕉

語は「山吹」で春。『笈の小文』所収の句で、前書に「西河(にしこう)」とある。現在の奈良県吉野郡川上村西河、吉野川の上流地域だ。この「瀧(たき)」は吉野大滝と言われるが、華厳の滝のように真っ直ぐに水の落下する滝ではなくて、滝のように瀬音が激しいところからの命名らしい(私は訪れたことがないので、資料からの推測でしかないけれど)。青葉若葉につつまれた山路を行く作者は、耳をろうせんばかりの「瀧の音」のなか、岸辺で静かに散っている山吹を認めた。このときに「ほろほろと」という擬態語が、「ちるか」の詠嘆に照応して実によく効いている。「はらはらと」ではなく、山吹は確かに「ほろほろと」散るのである。散るというよりも、こぼれるという感じだ。吉野といえば山桜の名所で有名だが、別の場所(真蹟自画賛)で芭蕉は書いている。「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重(ひとえ)に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、櫻にもをさをさを(お)とるまじきや」。現在でも川上村のホームページを見ると、山吹の里であることが知れる。「ほろほろと」に戻れば、この実感は、よほどゆったりとした時間が流れていないと感得できないだろう。その意味では、せかせかした現代社会のなかでは、もはや死語に近い言葉かもしれない。せめてこの大型連休中には、なんとか「ほろほろと」を実感したいものだが、考えてみると、この願望の発想自体に既にせかせかとした時間の観念が含まれている。(清水哲男)


May 0152004

 廚窓開けて一人のメーデー歌

                           一ノ木文子

日はメーデー。主婦である作者は台所の窓を開けて、ひとり小声で「メーデー歌」をうたっている。♪起て万国の労働者、轟きわたるメーデーの……。行進に参加しなくなってから、もう何年になるのだろう。職場にいたころは、毎年参加していた。こうしてうたっていると、あの頃いっしょに歩いた仕事仲間のことが、あれこれと思い出される。みんな、どうしているだろうか。若くて元気だったあの頃が懐かしい。「汝の部署を放棄せよ、汝の価値に目覚むべし、全一日の休業は、社会の虚偽をうつものぞ」。純粋だった。怖いもの知らずだった。と、作者は青春を懐旧している。歌は思い出の索引だ。盛んにうたった時代に、人の心を連れて行ってくれる。メーデー歌を媒介にして、そのことを告げている作者のセンスが素晴らしい。今年の「みどりの日」に開かれた連合系の中央メーデーへの参加者は、激減したという。そりゃそうさ。世界中の労働者諸先輩たちがいわば血で獲得した五月一日という日にちをずらし、あまつさえチア・ガールを繰り出し屋台を作って人数をかきあつめるなどは、このメーデー歌に照らしてみるだけでも、その精神に反している。表面的にはともかく、従来からの資本と労働の本質的な関係は何ひとつ変わってはいないのだ。にもかかわらず、主催者がこうした愚行を犯すとは。情けなくて、涙も出やしない。恥ずかしい。今日は、どんなメーデーになるのだろうか。私も、小声でうたうだろう。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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