どこにも出かけないとなると、なんとなく落ち着かない感じだ。悪い習性だな。




2004ソスN4ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 3042004

 妻ふくれふくれゴールデンウィーク過ぐ

                           草間時彦

くれている理由は、夫婦で(あるいは家族で)どこにも出かけないでいるからだろう。この時期、新聞やテレビを見ても、行楽地で楽しそうにしている人たちの様子が写っている。みんなあんなに楽しんでいるのにと思うと、出かけない我が身がみじめに思えてきて、ついついふくれっ面になってしまう。作者の事情は知らないが、せっかくの連休を家でゆっくり過ごしたいと思ったのかもしれないし、手元不如意だったのかもしれない。いずれにしても世間並みのことを妻にしてやれない負い目のようなものはあるから、妻の不機嫌が余計に目立つのだ。こんなことなら、無理してでも出かけておけばよかった……。なんとも愉快ではない忸怩たる思いのうちに、ゴールデンウィークが過ぎていったというのである。思い当たる読者もおられるだろう。戦後経済の高度成長とともに、連休と旅が結びついてきて、連休前には「どこにお出かけですか」が挨拶代わりまでになってゆく。だから、ニッポンのお父さんたちは大変なことになったのだった。仕事からは解放されても、家族サービスという名の労働が待ち受けるようになったからだ。バブル崩壊後には少しはこの風潮にも翳りが出てきたが、しかし依然としてどこかに出かける人は少なくない。海外へは無理でも、近隣への小旅行は可能だというわけか。そんな人たちで、今年も行楽地はにぎわっている。ということは、逆にどこかには「ふくれふくれ」ている妻たちも存在する理屈だ。そしてもちろんその蔭には、居心地悪く家の中で小さくなっている夫たちも……。やれやれ、である。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2942004

 田螺らよ汝を詠みにし茂吉死す

                           天野莫秋子

語は「田螺(たにし)」。春、田圃や沼などの水底を這い、田螺の道を作る。ちなみに、斎藤茂吉の命日は二月二十五日。「田螺ら」が、ようやく動きはじめようかという早春の候であった。そんな田螺たちに、いちはやく茂吉の訃報を届けてやっている作者の暖かさが伝わってくる。いや、こうして田螺たちに告げることで、「ついに亡くなられた」と自身に言い聞かせている作者の哀悼の気持ちが滲み出た句だ。告げられた眼前の田螺たちは、春まだ浅い冷たい水の底で、じっとして身じろぎもしなかったろう。茂吉の田螺の歌でよく知られているのは、『赤光』に収められた「とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるき水恋ひにけり」だ。「かりようびんが(迦陵頻伽)」とは雪山または極楽に住む人面の鳥で、田螺はそのかくし児だというのである。不思議な歌だが、何故か心に残る。田螺についての茂吉の言。「田螺は一見みすぼらしい注意を引かない動物であるが、それがまたこの動物の特徴であって、一種ローマンチックな、現代的でないような、ないしはユーモアを含んでいるような気のする動物である」。不思議な印象の田螺だから、かくのごとき不思議な想像歌が自然に飛びだしたと言うべきか。みすぼらしく見えてはいるが、実はとんでもない高貴の出なんだぞと世間に知らしめることで、田螺のために暖かい気を配ってやっている。掲句の作者は、間違いなくこの一首を踏まえて詠んだのだと思う。世の中には、そんな高貴の出自とも知らずに、平気で田螺を食ってしまうう人がいる(笑)。南無阿弥陀仏。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)


April 2842004

 夏みかん酸っぱしいまさら純潔など

                           鈴木しづ子

語は「夏みかん(夏蜜柑)」。夏に分類している歳時記もあるが、熟してくる仲春から晩春にかけての季語としたほうがよいだろう。これからの季節に白い花をつけ、秋に結実し、来春に熟して収穫される。句は、戦後彗星のように俳壇に登場し、たちまち姿を消した「幻の俳人」鈴木しづ子の代表作として有名だ。朝鮮戦争が激化していたころの作品である。つまり戦後まもなくに詠まれているわけだが、当時の読者を驚かすには十分な内容であった。いかに戦前の価値観が転倒したとはいえ、まだまだ女性がこのように性に関する表現をすることには、大いに抵抗感のある時代だった。良く言えば時代の先端を行く進取の気性に富んだ句だが、逆に言えば蓮っ葉で投げやりで自堕落な句とも読めてしまう。そして、多くの読者は後者の読み方をした。いわゆる墜ちた俳人としての「しづ子伝説」を、みずから補強する結果となった一句と言えるだろう。最近出た江宮隆之の『風のささやき』(河出書房新社)は、そうした作者をいわれ無き伝説の中から救い出そうと奮闘した小説だ。実にていねいに、しづ子の軌跡を追っている。本書の感想は別の場所に書いたので省略するが、著者は掲句の成立の背景には朝鮮戦争があったことを指摘している。当時のしづ子は米兵と恋愛関係にあり、出撃していくたびに彼の安否を気遣うという暮らしであった。だから、彼女は自分の純潔や純潔感を恥じたのではない。戦争の巨大な不純を憎んだがゆえに、「いまさら(世間が)純潔など」を言い立てて何になるのかと、そんな思いを込めて詠んだのだという。しかし特需景気に湧いていた世間は戦争の不純には目もくれず、作者の深い哀しみにも気がつかず、単なる自堕落な女の捨てぜりふと解したのだ。俳句もまた時代の子である。私たちが同時代俳句を読むときにも、心したいエピソードだと思った。『指輪』(1952)所収。(清水哲男)




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